予選32

 エドワードと交渉し、毎日決まった時間にアイス商会の者が孤児院を訪れ、バターを100グラムにつき約2000ゼンで、作った分だけ全て買い取ってくれることになった。明日に限っては、そのときにゼリーとグミを11個ずつ納入することになった。


 グミやゼリーと違って、バターは単品で食べることができない。ヘンリーのように自宅に厨房がない人も多いだろうし、料理をしない人にとってはバターは買いにくいものだ。だから、レストランや屋台などを1軒1軒訪れて買取交渉をしないといけないのだが、俺にはそんなことをやっている時間はない。多少の手数料を支払ってでも、アイス商会に代行してもらえるのなら、俺としては凄く助かるのだ。


 エドワードはゼリーとグミとバターの製法を知りたがったが、企業秘密で押し通した。俺達がこの街を去るときにレシピをオークションにかけることを仄めかせておいたが。


 エドワードに、腕のいい竹細工職人に心当たりはないか訊ね、その人の工房の場所を教えてもらった。厳密には俺の知っている竹とは微妙に違う植物のようだったが、魔法により竹と翻訳されていたので、深く考えないことにする。


 アイス商会を出た俺は竹細工職人の工房を訪れ、団扇うちわの骨組みの制作を依頼した。この国には団扇が存在しなかったので、団扇とは何かという部分から説明を始め、紙に簡単な設計図も書いた。

 1枚300円で作ってくれることになったので、とりあえず200枚発注しておき、前金を支払った。


 次に、肉屋に行き鶏ガラを購入した。

 卵は食べないのに、鳥は飼育しているらしく、普通に買うことができた。俺の知っている鶏とは微妙に違うようだったが、これも魔法により鶏と翻訳されていたので、やっぱり深く考えないことにした。

 豚骨と牛の皮や魚の鱗、果物など昨日と同じものも買って、リヤカーがいっぱいになった。


 それぞれの店で、明日からは孤児院に届けてくれるように頼んでおいた。配送料はかかるが、市場と孤児院を往復するだけで時間を使いすぎているからな。他人にできることは他人に頼んでおいた方がいいと思った。


 孤児院に戻った俺は食材を青山に預け、手の空いている子どもにトランプの制作を依頼した。これはカードに活版印刷用に作った判子で数字を押し、記号を書き加えるだけの比較的簡単な作業なので、あまり仕事を頼めない小さい子に頼んでおいた。


 孤児達を自分の従業員のように扱っていることに罪悪感を覚えなくもなかったが、院長も職員の人達も、子ども達に仕事を与えてくれるのは大歓迎というスタイルだったので、逆に感謝されてしまい、ますます居心地が悪かった。


 サイン色紙に『1の3』のロゴマークの判子を押しているうちに、『エンジェルズ』の営業時間が迫ってきた。明日からは、この作業も子ども達に丸投げしようと決意した。


 大量のサイン色紙をリヤカーに載せ、『エンジェルズ』に行った。リヤカーを裏口に駐車し、盗まれないように柱に紐で固く縛っておいた。そんなことをしたところで、紐を切られればお仕舞いだが、無造作に置いておくよりは盗むのに心理的な抵抗があるはずだ。


 ステージに行くと、七海達が女性スタッフに演歌の歌唱法を教えているところだった。浅生律子とヘンリーは、演奏家に演奏法を教えていた。しかし、どちらも女性スタッフも演奏家も、まだステージで発表できるほどには上達していなかった。演歌は日本独自の文化だから、もともとの素養がないと習得するのに時間がかかるのだろう。


 挨拶をして練習を見学していると、この店の用心棒をしている、背が高くて怖い顔つきをしたマッチョなお兄さんに話しかけられたので、ビビった。

 しかし、話を聞いてみると、お兄さんも『1の3』のサインが欲しいということだったので、苦笑してしまった。昨夜の時点でサインが欲しかったのだが、仕事中だから我慢していたらしい。もちろん俺は快諾し、七海達にサインを書かせ、お兄さんに渡してもらった。お兄さんは大喜びで、ちゃんと規定の料金を支払ってくれたので、俺も喜んだ。


「――おいおい、困ったな。大変なことになってるぞ」


 店長が頭を掻きながら、俺に向かってそう言った。


「どうしたんですか?」

「表の入り口前に行列ができている」

「それが大変なことなんですか?」

「ああ。すでに数百人は並んでいるんだよ。この店の収容人数を完全にオーバーしているんだ……。開店前にそんな状態になっているなんて、この店を創業してから初めてのことだ。お前らのせいだぞ」


 店長は笑顔を浮かべながらそう言った。口では責めるような物言いをしているが、嬉しくて嬉しくてしょうがないのが手に取るように分かった。


「それって、『1の3』目当ての客ってことですよね?」

「ああ。もちろん、うちのスタッフ目当ての常連客もいるんだが、初めて見る顔の方が圧倒的に多い。きっと、今日街や職場で『1の3』の噂を聞いて、一目見ようと駆けつけた奴が多いんだろう」

「うーん……。それなら、特別プランを導入するのはどうでしょうか」


 俺はそう提案してみた。


「特別プラン? 何だそれは」

「通常プランは昨日までと同じように、テーブル席でスタッフに接客してもらえます。それとは別に、立ち見で、スタッフによる接客はなしで、『1の3』のライブ1回の時間だけ店内にいられる特別プランを導入するんです。入場料金を取って、それとは別にドリンクを1杯は注文しないといけないけど、通常プランよりも安い価格設定にすれば、特別プランを選ぶ客も多いんじゃないでしょうか」

「なるほどな。よし、それで行こう」

「あ、待ってください。特別プランを選んだ客の人数に応じて、俺にも分け前が欲しいんですけど」

「お前……昨日の今ごろとは、えらく態度が違うじゃねえか。猫を被ってやがったな」


 店長は笑顔のままで俺を睨んでそう言った。


 そして客が店内に入れられ、超満員となった。昨日は先に女性スタッフが場を温めておいてくれたが、今日は『1の3』目当ての客が多いので、最初から『1の3』がステージに立つことになった。

 女性スタッフの仕事を奪ってしまった形になるが、みんな演歌を教えてくれる七海達には感謝していたので、特に問題はなさそうだった。


 昨日は1回のステージに3曲だったが、今日は演歌2曲、アイドルソング2曲の計4曲を歌った。自信がつき、ステージに慣れた七海達は本当に魅力的で、見違えるように輝いていて、俺もデスゲームの真っ最中だということを忘れてしまいそうになるくらいだった。

 その後のサイン会は店内に長蛇の列ができてしまったので、最後尾の人を確認した後、同じ人が何回も並ぶのは禁止した。昨日もサインをもらった人が何人も並んでいたが、それは別にルール違反ではないので歓迎した。


 そしてサイン会が終わると、特別プランの立ち見客には全員退店してもらったが、事前にそういうルールだと説明してあったので、特に混乱はなかった。特別プランの客達が、そのまま店の前に行列を作り始めたのは、計算外だったが……。


「常連客が入りにくい状態になってしまって、ご迷惑をおかけして、すみません……」


 俺は店長にそう謝るしかなかった。


 店長と相談し、明日からは昼間の時間帯にも『1の3』だけのワンマンライブを行なうことになった。そうしておけば、本来の営業時間にライブに来る客が減るだろうと思ったのだ。

 工業都市のウォーターフォールでは、3交替や2交替のシフト制で工場で働いている人も多いので、昼間の時間帯でもそれなりに客は来ると思われた。

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