第10話 鈴木の歌

 次の週の木曜日、耕介はグーズのカウンター席でビールを飲みながら、「確かに似てるな・・・」と呟いた。


 スローテンポな曲が多かったが、声質は問題ないレベルだった。


 耕介はカウンターの黒いTシャツの女に話しかけた。


 「ナツさん、あの人と話をさせてもらえないかな?」


 黒いTシャツの女は、毎回「ナツでいいよ。」と言ったが、耕介はあえて「さん」を付けて呼んだ。


 「終わったらいつもカウンターで飲むから、話しかければいいじゃん。」とナツは言った。




 男は23歳で、名前は鈴木だと教えてくれた。


 耕介のイメージしていた『ミュージシャン』とは違っていて、普通の大学生のような恰好と髪型をしていた。


 建築事務所で見習いをしていると言われれば、多分信じただろう。


 音楽は趣味でやっているだけだと言ったが、本業を聞くと少し恥ずかしそうに、コンビニや交通整備のバイトをしていると答えた。


 おそらく本心は、音楽で生計を立てたいのだろうと察しがついた。




 耕介はどう切り出そうか決めかねていたが、鈴木の様子を見て、あまり作り過ぎずに話をした方が良さそうだと思った。


 耕介は、実は自分も趣味で曲を作っているが、楽器と歌唱力に自信がないので、出来れば理想の声の持ち主に歌って欲しいと思っていた、と話した。


 鈴木はしばらく考えていたが、どんな曲なのか聞かせてほしいと言った。


 耕介は持参していたボイスレコーダーを渡し、カラオケボックスで自分が歌ったアカペラの音源を聞かせた。




 鈴木は明らかに驚いていた。


 「この曲作ったんですか? すごい・・・。完璧に歌として出来上がってる。」




 耕介は嬉し恥ずかしいという感情が一瞬生まれたが、直ぐにその曲を作ったのはプロのミュージシャンなのだから、当然ではあると我に返った。


 「どうかな?歌ってもらえないかな?」


 「上手く歌えるか分からないけど、ちょっと練習してみます。歌詞と楽譜貸してもらえますか?」と鈴木は言った。


 「ごめん。本当に楽器がダメで、いつも曲はアカペラで作るんだ。僕のデモを貸すから、楽譜は自分で起こしてもらえると助かる。あと、歌詞は自分でアレンジしてくれるかな?」と耕介は言った。


 「分かりました。じゃあ、お借りします。返すのは来週の同じ時間でいいですか?それまでには練習してきますんで。」と鈴木が言ったので、耕介は構わないと答えてデモを渡した。


 鈴木は早速楽譜に落すと言って、グラスに残っていたビールを一気に飲み干すと、直ぐに帰って行った。




 その様子を見ていたナツが、「鈴木嬉しそうだったね。どんな曲か私にも聞かせてよ。」と言った。


 耕介は、来週鈴木が歌うのを一緒に聞こうと答えた。


 「工藤って、仕事何してんの?」とナツが聞いた。


 当然呼び捨てである。


 耕介は、フリーで建築設計の下請けをしていると答えると、ナツは儲かるのかと聞いてきた。


 耕介が、日々生き延びるだけの収入はあると答えると、ナツは笑いながら、約束通りビールを一杯おごってくれた。




 「ところでさ、椎木マキに声が似てる人はどこで歌ってんのかな?」と耕介が聞くと、ナツが何か言おうとする前に、カウンターの奥でドリンクを作っていた男が、「そりゃ、ナツのことだろ?」と言った。


 この男は、ナツにジョージと呼ばれていて、本名なのか、あだ名なのかは分からなかったが、でっぷりとした体とヒゲ面には、その名前が実に合っていた。


 いつか黒い車でナツと犬を迎えに来たのは、きっとジョージなのだろうと耕介は思った。


 「そうなの?」と耕介がナツの方を向いて聞くと、「あっちが私に似てるんだよ。」と不満そうに言った。


 聞くと、ナツも昔バンドをやっていて、その時はグーズでも何度か歌ったことがあるとのことだった。




 耕介は鈴木の件もあったので、ナツの歌声も聞いてみたいと思い、何か歌ってくれないかと聞いてみたが、あっさりと断られた。


 いかにも歌唱力に自信があって、いつお願いしてもすぐにその場で披露してくれそうな雰囲気だったが、読めない女だと耕介は思った。




 ☆☆☆




 耕介は「ISDN」という言葉を始めて聞いたような気がしていたが、プロバイダー契約の際の書類やパンフレットを見ていて、当時CMで男性人気グループが、音楽に合わせて尻文字でテレビ画面上に「I・S・D・N」という文字を書いていたのを思い出した。


 通信速度は期待していなかったが、その速度の遅さは、これからの作業効率低下を容易に想像できた。




 耕介は、まずお馴染みの検索エンジンをホームページ設定して、『オンライントレード』と入力して検索してみた。


 耕介は全く知らなかったが、この時代からちゃんとネット証券は多数存在していたし、会社名も耕介が知っている名前が数社あった。


 耕介はその中からヤマダ証券を選び、口座開設を行った。


 ひと画面入力する度に、次のページにジャンプするのに時間がかかった。


 イライラしないようにコーヒーを淹れたが、口座開設完了までに、マグカップ2杯分のコーヒーを飲むはめになった。




 気が付くと夜の8時を過ぎていたので、耕介は急いで支度をしてマウンテンバイクでグーズに出掛けた。


 昼間に、耕介が昼食のカップラーメンをズルズルとすすっていると、部屋のドアを「コンコンッ」と軽快にノックする音がした。


 出てみるとナツが立っていた。


 ドアの叩き方とナツのイメージがマッチせず、耕介は不思議そうな顔でナツを見た。


 「鈴木の出番が今日になったから、工藤にも来てほしいって。」と言うと、直ぐにナツは帰って行った。


 耕介は後ろ姿に向かって「伝言ありがとう。」と言った。


 ナツは聞こえたのか聞こえなかったのか、そのまま階段を下りて行ってしまった。




 ☆☆☆




 鈴木は持ち歌を一通りやったあと、ちょっと間を開けて「次の曲は、あそこでビールを飲んでいる工藤さんが作った曲です。とてもいい曲なので聴いてください。」と言った。


 客の大勢が耕介の方を振り向いたので、耕介はばつが悪そうにカウンターの方に向き直って視線を避けた。


 数人の客がその様子を見てクスクスと笑った。




 耕介は、鈴木の演奏が始まる前にボイスレコーダーで録音の準備をした。


 鈴木の歌は、耕介の期待通りだった。


 アコースティックギター1本では少々物足りない感じはしたが、ほぼ原曲を再現していた。


 先ほどクスクスと笑っていた客も、今度は感心した表情で耕介を見た。




 曲が終わると、鈴木の持ち歌が終わった時よりも少し大きめの拍手がおき、客の中には耕介に向かってグラスを掲げている者もいた。


 耕介は、ボイスレコーダーの録音を切った。


 何組かの客が、耕介の方をちらちらと見ながら話をしていた。


 何か話しかけられても面倒なので、トイレに行こうと席を立ちかけた時、カウンターの中にいたナツが、「鈴木の歌いいね。あいつ苦労してるからさ、ちょっと応援してんだよね。」と言ったあと、「工藤は、私にも曲をくれるの?」と聞いてきた。


 耕介は浮きかけた腰を椅子に戻し、「うーん。ナツさんの声と、僕の曲のイメージが合えばだけど。」と答えた。


 ナツは何かを考えているのかいないのか、何も言わずに他の客のビールを運んで、どこかへ行ってしまった。


 ジョージが「なかなかいい曲作るなあ。ナツも歌うと思うぜ。」と言いながら、右手で耕介の肩を軽く叩いた。




 耕介は、トイレに入ってボイスレコーダーにイヤホンをつなぐと、音源の確認をした。


 グーズは、音楽を聴きに来ている客ばかりではない。


 時折そんな客の大きな笑い声が入っていたが、曲のイメージは十分に保たれていた。


 耕介は「よし!」と小さな声で言うと、トイレを出てカウンターに戻った。




 カウンターでは、鈴木が両手にビールを持って耕介を待っていた。


 片方のビールを耕介に手渡しながら、「どうでした?イメージ通りになってましたか?」と、自信ありげな顔で聞いてきた。


 耕介はイメージ通りだと伝えた。


 鈴木はよほど達成感があったのか、その晩は終始上機嫌で、他の曲も歌わせて欲しいとか、二人のタッグでデビューしようと話し続けた。


 耕介は、閉店まで飲み続けてフラフラになった鈴木を放置できず、結局駅まで見送る羽目になった。

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