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 半世紀前、戦争があって、この国は負けたという。


 でも、最後まで諦めない人達がいた。戦争が終わってさえなお、決してそれを認めない人達が。彼らの部隊は全てを捨て、研究をした。この国が負けたという事実を無かったことにするために。

 世を忍び、誰にも明かせぬまま、平和な日常の、その水面下で研究は続いた。それは長い長い間を経て一つの成果に結びついた。


 やがて部隊の大半は散り散りになり――それでも、その成果は残った人達によって、日本のどこかに隠された。


 物心ついた時から、僕は彼らの“ケンキュウノイシズエ”だった。

 それが当たり前だと思っていた。施設の中で、大人達に囲まれ、こう言い続けられてきた。お前が“最初のカギ”だと。十三年間、生まれた時から、ずっと。この世界は狂っている。中途半端に国境が引かれ、不完全なかたちになってしまった日本。それらを白紙に戻し、もう一度やり直すための“成果”、すなわち、ミサイル。それを起動させるカギこそが僕だと。


 あの頃の僕に自我なんて無かった。このままずっと施設で過ごして、やがて来たるべき時に身を捧げるのだろうと、大人の言うことを信じ切っていた。


 でも、二年だったか三年だったか、それくらい前、施設にある女の子が来た。


 僕よりも七つ年上のお姉さんだ。

 外の世界を知らない僕に、その人は色んな話を聞かせてくれた。夏の日、同い年の女の子と遊んだ話。アイスやスイカが美味しかったこと。青空がキレイだったこと。だいじな約束をしたこと。外で見聞きしたことを話してくれた。

 その子がどうしてその施設に来たのかは分からない。しばらくして彼女は“テスト”のようなものを受けて、すぐどこかへ行ってしまった。


 面白いとか羨ましいとか、そういうのは無かった。でも、その子が嬉しそうに話すのを聞いて、僕の中で何かが、少しだけ変わった。


 やがて僕はこう思い始めた。

 この世界を白紙にしてしまっていいのだろうか。あの子が笑顔で話していたような世界を終わらせていいのだろうか。大人達が言っていたのは、本当に正しいのだろうか。

 僕が。僕の使命が、それを成すための“最初のカギ”だというなら――逆にあのミサイルを“止める”ことだって出来るんじゃないだろうか、と。


 一度生まれた想いを抑えることは出来なかった。僕ならできる。やってやれる。ミサイル発射プログラムをオーバーライドして、それで二度と起動できなくさせる。


 これは僕の中に芽生えた“反抗期”。だからある日、施設を逃げ出した。


 世界を守ろう。そう思ったから。


―――


「難しいことはわかんないし、どうせ聞いても教えてくれないんだろうけど」

 さっきまでの表情とは打って変わって、シュンコさんは僕をまっすぐに見つめてきた。

「それって、キミがどうしてもやらなきゃいけないことなの? なんだか知らないけど、自分を縛っていた場所から逃げて、自由になったんでしょ」

 そう。僕は自由になった。施設の大人達から解放され、追っ手を振り切って逃げてきた。

「やっと自由になって――やらなきゃいけないことじゃなくて“自分がやりたいこと”は?」

 それはもちろん、と僕は山の方角を向いた。

「いやだから。それって、本当にキミがやりたいこと?」

 シュンコさんは真剣だった。

「さっきから役目、役目って。なんか、まるで自分に言い聞かせてるみたい」


―――


 僕が施設から逃げたのが数日前。それから色々な大人に会った。外の世界は思ったより普通で、なんてことなかった。施設の中では僕はずっと特別扱いされていて、でも外の世界では誰も僕をそう見なかった。それがかえって新鮮だった。色んな人がいるんだな、と思った。そしてその誰もが、他の誰かと楽しくお喋りしているようだった。まるで僕に話を聞かせてくれたあの子みたいに、笑顔だった。


 やがて僕はこの街に辿り着いた。追っ手が来ていた。それで僕はここに逃げ込んだ。

 これはシュンコさんのためでもある。

 世界を守らなくちゃいけない。この僕が守らなくちゃ。

「だから、それがヘンだっていってるんだよ」

 シュンコさんは逃げ込んだ僕を何も言わずに匿ってくれた。シャワーを浴びさせてくれて、数日ぶりの食事を作ってもらった。優しい人だと思った。

 その彼女がどうして僕を問い詰めているのか、なかなか理解できなかった。

「あたしはあの山に何があるのかなんて知らないし、知ろうとも思わない。どうせヤバいことだろうから言わなくてもいい。でも、そんなことはどうでもいい。あたしはキミ自身の話をしてる」

 シュンコさんはカウンターからコーヒーを二杯分淹れ、こちらへ歩いてきた。

「サービス。飲みなよ」

 シュンコさんは僕の隣に腰掛ける。

「父さんみたいに、喫茶店のマスターとしてお客さんの話なんて聞く、なんて、あたしはそんな器じゃないんだけど」

そして二つのカップにたっぷりの砂糖を入れ、一つを僕に寄越した。

「でも今のキミはヘン。あたしの母さんと同じくらいヘン。それからあたしもヘン。みんなヘン。世界を滅ぼすんだか救うんだか、言ってることがメチャクチャだけど、どっちにしたってキミはもう帰ってこられなくなるんでしょ。せっかく自由になったのに、その“役目”とやらに縛られてるだけじゃない」

 ……。

「言い方を変えるけど。役目なんか捨てて“何もしない”って選択肢は?」

 僕は聞き返した。

「せっかく、自由になったのに?」

 シュンコさんは顔を近づけ、じっと僕を見つめる。


 仮に役目を捨て、自由になって――そしてどうする? 僕はそこから先が分からない。


「……コーヒー」

 ?

「まだ熱いから、もう少し冷ましたほうがいいかも」

 二つのコーヒーをテーブルの隅に押しのけ、シュンコさんはさらに僕のほうに寄る。

 年上の、女の人。赤いセルフレームの眼鏡。薄いピンクの唇。小柄な鼻。一重まぶた。左目の下の泣きぼくろ。黒い、黒い瞳。どれくらいそのままでいただろうか、シュンコさんは僕の顔をずっと見つめていた。

 施設の中で会ったあの子と、どこか似ているようで、全然違うひと。


「キミは自由になって、何をしたらいいか全然わからない、なんて言うけど」


 シュンコさんは笑った。そして言った。

「――じゃあ、例えば、こんなのは?」


 言うやいなや、不意に、強い力で押し倒された。


―――


 視界がぐるんとまわり、半分だけ薄暗く灯った天井の電灯を見上げる形になった。

 その天井を遮るように、僕の上にのしかかってきたシュンコさんの顔が現れた。

 彼女は眼鏡を外し、次にエプロンのポケットにしまっていた1,000円札(さっき僕が飲食の代金として“払った”一枚だ)を取り出し、それらをテーブルの上に置く。

「足りなかったら、後であたしがもう何枚か渡すからさ」

 ……何のこと?

 身体に力が入らなかった。やけに強い腕力で、パーカーが強引に脱がせられる。続いてシャツとズボン。為されるがまま、抵抗すらできない。抵抗していいのか、それすらも判断できない。心臓が高鳴る。正常な思考ができない。

 僕を“剝いた”後、シュンコさんもまた自分の衣服をはだけはじめた。エプロン、ブラウス、スカート、それから――目の前で、次々と脱ぎ捨てていく。シュンコさんはその間もずっと僕の顔を見たままだ。気付いた時にはソファの上で組み伏せられ、上に乗りかかられ――そして屈服させられていた。静かに目を滾らせた獣に、外された眼鏡の下にあったその瞳に、僕は恐怖した。


 僕はここに何をしにきたのだろう。そして今、僕は何をされているのだろう。


 獣は僕の両頬を掴む。頭突きのような勢いで、強引に唇を塞がれる。こつん、と前歯どうしがあたる。息が出来なくなる。

 知らない。僕はこれから何が起こるのか知らない。まるで分からない。身体が熱を帯び、震えてくる。自分自身で制御ができない。その熱は、どんどんと昂っていく。

 呼吸の仕方を忘れるようなくらいの長さの後、ようやく唇が離れる。


 次に、なにかが。なにかが、僕に触れた。例えようのない情動。


 ――“これ”は――。


「よくわかった。キミは何も知らない。例えば、この世界には“こんなこと”だってあるのに」

 獣が口を開いた。


 あの施設で、僕は、どんな実験も、どんな苦痛も耐えてきた。

 何もかも、辛いことは味わった。そんな気になっていた。そんなつもりでいた。


 でも、ああ、でも。これは。“こんなの”って――。

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