A

 街の大通りから少し外れた喫茶店。


 自宅を兼ねたこの店はあたしが小学生の頃、父さんが開いた。

 父さんはムコヨウシという奴で、東京からこの街に来て、そこにいた母さんと出会った。それであたしが生まれた。父さんの、昔からの夢だったらしい。

 両親とも人付き合いがよかったから、地元の人達が大勢来てくれていた。あたしもマスコットみたいにされて、随分みんなにかわいがってもらった記憶がある。コーヒーの香りと皆の笑い声に囲まれた、幸せな子供時代だった。

 たった五年の後、父さんが事故で亡くなるまでは。


 そうして、あたしと母さんと、この店だけが残された。元々お金が沢山あったわけでもなかったから、生活は一気に苦しくなった。あたしも高校を中退して働こうかと言ったけど、母さんは反対した。一人でこのお店と、もうひとつパートを掛け持ちすることで、なんとかしようとした。

 そう、あの人は自らの“役目”に固執しすぎた。店を手放して家も売って、小さなアパートに移る選択肢だってあったのに、そうしなかった。そうではないほうの選択肢を選んで、それで人生を犠牲にしたのだ。


 結果はどうか。母さんは身体を壊した。あんなに溌溂とした印象の女性だったのが、今は見る影もない。そして十八歳になって高校を卒業したあたしの身分は高校生から“家事手伝い”になった。ある“ちょっとした理由”から、あたしは周囲から東京に出て行くことを止められた。だから他にどうしようもなかった。この緩やかな下り坂の日常を続けるという選択肢を“選ばされた”のだ。


 この喫茶店は、どうにもできないあたしを囲う籠のようでもあった。


 これが今までのこと。ここで仕事をするのは苦痛ではない。でも、何の変化もない。この店も、今や来るのは街の警察署にいる母方の叔父と、その部下の警察官くらい。不幸な妹とその娘のために、叔父はあたしを信頼し、この店に情けをかけている。


 あっというまに一年が経ってしまった。時が変われば人も世の中も変わる。変わらなかったもの、変われるチャンスを失ったものは、そこに取り残されるしかない。


 もしそんな日常が、世界が、突然いっせいに終わるとしたら――なんて言われても、普通は誰だって真面目には考えない。

 海の向こうから何かの“敵”(たぶん北側の連中とかだろう)が来たり、原発が爆発したり。あるいは宇宙人かもしれない。可能性ならいくらだって言える。でも、どれもばかげた話だ。それこそ“99年の夏に世界が滅ぶ”なんて、例の予言の話のようで。アレをまともに信じている人なんているわけがない。

 仮にそれが本当だとしても――正直、別にどちらでも良かった。


 この籠のまわりで何が起こっても、たとえその拍子に籠の扉が開いたとしても、ここから出て行くには、あたしはあまりにも慣れすぎてしまっていた。


―――


 役目、役目、とハルは繰り返し言う。自らに言い聞かせるように。


「追われてきたんだ、僕は。あいつらの好きにさせないために。世界を守るために」

 世界を? 守る?

 聞けば聞くほど現実感がなくて、思わず笑ってしまいそうになる。

「わかってる。こんなの、信じてもらえるなんて思ってないけど。……もう少し、ほとぼりが冷めたら、行く。シュンコさんに迷惑はかけられないし」

 何をしに?

「僕は世界を守る。その役目を果たさないと」

 またその単語だ。

 ホットサンドが焼けるまでの間、あたしはハルにシャワーを浴びるように促した。言ってはなんだけど、ハルは少し臭かった。

「でも」

 こういうときだけ、彼は困ったような顔を――どこにでもいる男の子みたいな顔をする。まるで今まで普通の扱いなんてされてなかったような。あたしの知らない世界のどこかから来た子。いいから入れ、とタオルを渡して風呂場に案内する。


 さてどうしようか。カウンターの上に置かれた電話を見る。叔父を欺いたことに後悔はない。けれど思ったよりヤバいのかもしれない。ハルが言うとおり、何かに“追われてる”んだとしたら、当然、このままでは自分も巻き込まれるだろう。


 と、そこまで考えて、思わずあたしは笑ってしまった。


 あははは。

 世界を守る役目を背負った少年を拾った? あたしが?

 まるでアニメか、少年漫画の世界みたいだ。

 彼には悪いけど、それこそ真面目に考えるのがばからしくなってきた。


 付き合ってあげようか。


 可愛い子だし。


―――


 午後9時。


「……」

 風呂場からぺたぺたと足を鳴らして出てきたハルの姿に仰天した。

 何故服を着ていないのか。何故濡れっぱなしで出てきたのか。そして何故――右下腕に、幾何学模様の、刺青のようなものが入っているのか。


 言いたいことは色々あるが、まず床がびしょびしょになっているのをなんとかするのが先だ。慌ててバスタオルを取り出し、頭から拭く。ハルはその間なすがままだった。まるで仔犬だ。それから、首元に何かが光っているのが見えた。単なるアクセサリのような――まるでカギのような何か。 

「その、シュンコさん。……ありがとう。とっても暖かかった」

 まさか全裸で来るとは思わなかった。焼き上げたホットサンドをまな板の上で切りながら、服を着るように促す。横目で見たハルの身体はほっそりとしていて、発達途中特有の中性的な柔らかさと、水を弾くような張りがあった。どこまでも未熟で、それゆえにバランスのとれた身体は本当に人形じみていて、それだけに、右下腕の刺青がいっそうの異彩を放っていた。

 あたしは小さく深呼吸をする。


 やがて服を着たハルをテーブルに座らせ、ハムとチーズのホットサンドを目の前に置く。

「食べても、いい?」

 代金なら頂戴済みだ。

「……おいしい」

 一口かじったサンドを見つめてハルは呟く。ただのホットサンドだ。けれど、その一言は偽りのない言葉に聞こえた。


―――


 そういえば、と、ひとつ思い出したことがあった。


 あたしが子供の頃――ちょうど10年前だか、あの山でちょっとした事件が起きた。いわゆる神隠しだ。あたしとそう歳の変わらない子が行方不明になったりして、それからしばらくはあそこに立ち入らないようにと言いつけられていたりした。

 あの山には一体何があるというのだろう。


「僕は」

 暖かいシャワーと暖かい食事を取り、それでもハルは浮かない顔をしていた。張っていた緊張が解けたせいか、むしろ、さっきまでのまっすぐな目つきが彷徨いだしたようにも見えた。


 言っていいものやら、少し逡巡した後、あたしは切り出す。


 あの山にいって何をするのか、と。


「その、役目を」

 それはもう聞いた。なんべんも。

「……何をするかは言えないんだ」

 詳細は明らかにできないらしい。

 ならば、と質問を変える。それを成したら、キミは――ハルはどうなる?


「たぶん、帰ってこれなくなる。そう言われた」


 あたしはその一言をオウム返しに訊ねた。

「そう、きっと帰ってくれなくなる。でも僕はやらなくちゃならない。世界を守るために」

 待って。

「僕は絶対、あいつらの思い通りになんかさせない。だから逃げてきた。自由になった」

 ちょっと待って。

「だから僕は。だから――」

 あの刺青といい、追われてきたなんて一言といい、不穏なことばかりだ。

 ろくでもない目にあってきたんだろうとは想像がつく。

 でも、そこから自由になって、それで――その果てにやることが――それ?


 何が何だかさっぱり分からない。

 でもひとつだけ分かる。ハルと話しているうちに芽生えた、頭の中にあったモヤモヤが、いまはっきりと形になった。


 この少年はまっすぐだ。他に何も見えていなくて、その“役目”だけに固執している。

 同じだ。ハルの言っていることは、ハルが陥っている状態は、あの人と同じ。


 あたしはハルの行動に“むかついて”いた。


 だから言った。言ってやった。世界の命運だかを背負ってるらしい、この少年に。


 ――それって、本当が自分がやらなきゃいけないことなの? と。

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