春に桜花は散る

黒周ダイスケ

F

 季節は春。


 散った桜の、薄汚れたピンクの花びらが路上の排水溝にたまり、アスファルトを彩る頃。


 午後7時前。

 喫茶店のドアにかかる看板をクローズに回そうとしていたら、思わぬ来客があった。


 若い男二人を後ろに連れた、険しい顔つきをした長身のコート姿の中年男性。

 ドアを後ろ手に、入り口を塞ぐように立つ。

 あたしを見るなり、コートの男は表情をやわらげ、少しほっとしたような顔を浮かべる。


 お母さんの容態は聞いている。お前の体調は大丈夫か。風邪を引いたりしていないか。


 大丈夫だよ、と軽くあしらう。

 次に男は――あたしの叔父は――再び険しい顔つきに戻り、一枚の写真を見せた。いつもの、職業としての“警部”の顔で、叔父は言う。

 この少年に見覚えはないか。

 見たこともない、と即座に首を横に振る。訳ありの迷い子らしい。“親類”から連絡があって、この街のどこかにいるのを探して欲しいと。

 全然知らない、早く見つかるといいね、ともう一度、いつもの、職業としての“喫茶店のマスター代理”の顔で笑顔を返す。

 それより、いつもみたいに、そこの人達も連れて、暖かいコーヒーでも淹れようか?


 職務中だ、また来るよ、と叔父は手を振り、三人は喫茶店を後にした。


 からん、ころん、とドアが鳴る。ややあって、すっかり暗くなった住宅街にセダンのエンジン音が響き、遠ざかっていった。


 ――さて。


 あたしは店の照明を半分だけ落とし、エプロンを外し、カウンターの下をのぞき込む。


 息を潜めていた少年を目があう。

「……行ったの?」

 年の頃は中学生くらい。ノーブランドのパーカーとジーンズに包まれた、陶器のような白い肌。艶のある黒い髪。中性的な顔立ち。

 あの警部が――あたしの叔父が見せた写真。見間違いようもなく、同一人物。


 幼さの残る、怯えたような顔。まるい瞳がこちらを見る。


 これでいいんでしょ、とあたしは言った。

 腰を落とし、立ち上がるのを促すように手を伸ばす。


 ――少年はハルと名乗った。


 カーテンを閉め、もう一度湯を沸かす。コーヒーがいいか、ホットミルクがいいか。代金はさっき貰った。だから、いきなり押しかけてこようと「ここに匿ってくれ」と言われようと、あたしはその通りにするしかない。この少年は、店の客に他ならない。


「……コーヒーで」

 少しの間を置いた後、少年は小さく答える。

 砂糖とフレッシュを添えたコーヒーを置くと、彼はブラックのまま口をつけはじめた。

「なんで、僕を?」

 薄い唇をカップから離してハルは呟く。怯えと疑問と、少々の安心感が混じった複雑な表情。暖かさを取り戻して、ほんの少しだけ赤みがかった肌。


 特に理由なんてない。


 強いて言えば、見た目が好みだったからだ。


―――


 1999年、4月上旬。高校を卒業して、早くも一年が巡った。


 同級生はみんなは散り散りになった。夏休みに帰ってくるよと泣きながら言った子も、連絡するからねと言った子も、それきり音沙汰はない。

 あたしだけがこの街に閉じ込められ、取り残された。

 いつもの場所。代わり映えのしない日常。


 そんな日々を変える劇的な出来事なんて起こるはずない、と思っていたその時、ハルはあたしの前に姿を現した。


 閉店間際の喫茶店に来た珍客。彼は財布ならクシャクシャの1,000円札を一枚出すと「ここに隠れさせてほしい」と言った。

 自分でも驚くほどの即断で、あたしはそれに従った。やがてその通りに“追っ手”が来た。ハル曰く、奴らは親類を名乗り、自分を探そうと警察官に声をかけたのだという。

「後ろに、男が二人いただろ。あいつらだよ」

 確かにあたしの知らない顔だ。どう見ても、いつも叔父が連れている部下ではなかった。


 間違いなくヤバい案件だろう。ただでさえこの街は最近おかしな噂ばかり聞く。


 でも何の因果か巡り合わせか、あたしは彼がここに逃げ込んできた理由を知りたかった。そのためなら叔父を欺くくらいは何でもなかった。それは単純な興味本位と――そしてひとかけらの衝動だった。


 ともあれ、ハルはまだあたしへの警戒心を解かないでいる。

「助けてくれたことには感謝してる、けど」

 へんな女だ、とでも言いたげだった。

 それはそうだろう。あたし自身、自覚しているのだから。


 コーヒーを飲み終え、ハルは何かを口にしようと迷っているようだった。

「あのさ」

 あたしがその先を促すと、彼は一息おいてから続けた。

「その、ここにいたら一緒に“巻き込まれる”かもしれない。でも、もし――シュンコさんがよければ、もう少しの間だけ、ここにいさせてほしい」

 もちろんいいよ、と、あたしは頷いた。ただし教えてほしいことがある、と条件を付けて。


 キミは一体、何をやらかしたの? 何をしに、こんなところに来たの?


「僕は――“役目”のために、ここにきた」


―――


 確かにこのご時世、おかしなことのひとつくらいは、起こっても不思議じゃない。おかしな人間の一人くらいはいても不思議じゃない。


 年が明けてから、この街にも“また”色々と良からぬ噂が流れ始めた。北側の連中を海辺で見たとか、不審な人物を見たとか。

 テレビのワイドショーでも、連日、ナントカ軍事評論家とかを名乗るヒゲのおじさんが、北側の情勢やら国際関係がどうのこうのと話をしている。――世界情勢は緊迫しています。東京では最近、終末論を唱える新興宗教団体が信者をふやしています。北側では指導者が変わり――。

 この街は、というかこの日本は、正直、あまり平和とはいえない。でも喫茶店のカウンターで一日を過ごしている身にとっては実感も沸かないことだ。


 と、さっきまではそう思っていた。


「山に行くつもりだったんだ」

 ホットサンド食べる?

「……。……いただきます」

 カウンターにおかれた千円札をエプロンのポケットにしまう。1,000円。これでホットサンドセットの代金分。本当はランチタイム限定だけれど、特別だ。

 どこから来た、とは言わなかった。彼はただそう言った。

「信じてもらえないかわからないし、うまく言えないし、言っちゃいけないこともあるけど。僕は、絶対に、あの山に行って“役目”を果たす」


 ――ハル。突然あたしの前に現れた、見た目的にはサイコーの男の子。


「ねえシュンコさん。……もしある日突然、この世界が終わるとしたら、どうする?」


 ――見た目的にはサイコーで、でも、頭のおかしな男の子。

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