『星空』

ザクザクと夜道を踏み締めていくと、暗闇に佇む人影が見える。


今日はいるみたい。


「どうも」


声をかけると、人影はこちらに少し体を向け、どうもと返した。


「……」


それからしばらくは静寂としていた。


なんだか妙だな。

いつもなら、この辺でぽつぽつと思い出したように会話が始まるんだけど。


私はつい気になって、暗闇の中をじっと見つめてみる。

が、やはり暗闇はこの人の顔をベールでもかけたかのように見せてはくれない。


ここは住宅地から少し離れたところにある畑の脇道だ。

都会と田舎の中間にあるこのベッドタウンでも、穴場のような場所である。


しかしそれゆえに、街頭の類はなく、明かりは夜空に浮かぶ星空だけ。


そしてやはり、星の光だけでは離れた相手の顔までは見えない。


それにしても、今日の彼は随分と寡黙だ。

何か、合ったんだろうか。


基本的に話し始めるのはいつも彼の方からなんだし、今日くらいは私から話さねば。


よし、と意を決して話しかけようとした矢先、その気持ちを読まれたかのように、彼が話し始めた。


「ーー僕、明日引っ越すことになったんです。遠くに」


タイミングが被ったこともあってか、彼が言ったことを理解するのが少し手間取った。


引越す? 遠くに?


「だから、ここで見る星空は今日で最後なんです」


「……そう、ですか。それは……残念です」


私がそう言うと、彼は少し笑ったように思えた。


「ええ、残念です。ここの眺めは気に入っていたのですが」


それはつまり。


「それに、あなたと話すのも、これで最後になりますね」


そう、今日で最後なのだ。

お互いに顔も名前も知らぬまま、ただ星を眺めて語った、この関係も。

今日で。


「あなたと話すと、退屈しませんでした。人と何かを共有するって、案外気持ちいいことなんですね」


知りませんでした、と彼は小さく付け加えた。


「私も、あなたと話せてよかったです」


そこまで言うと、私は、思っていたことを素直に伝えることにした。


「……私も、知りませんでした。私が、人とこんなに心地よく過ごせるなんて」


顔も名前もわからないけれど。


「あなたと過ごした時間は、、星空に浮かんでるようで、澄んだ気持ちでいれた」


だから自然とこの言葉が出た。


「ありがとう」


しばらくの沈黙の後に、


「こちらこそ、ありがとう」


彼は優しい声でそう言った。





少し斜面になっている脇道に腰を下ろし、しばらく星を眺めた後。


彼は、ではこの辺で、と言って立ち上がった。


私もつられて立ち上がり、いつもの距離のまま、ええ、と短く言った。


闇の中、彼は軽く手を振り、後ろを向いた刹那、私の中に狂おしい程の焦燥感が湧いた。


このまま行かせていいのか。せめて名前だけでも聞いて置かなくていいのか、と。


私は、一歩、彼の方に踏み出した。


いつも同じ距離で、離れることはあっても、近づくことのなかった距離を。


彼はその音に振り向き、私が踏み出した事に少し驚いたみたいだった。


しょうがない人だなぁと、言われた気がした。


彼はもう一度空の方を見上げる。


「全ての空は繋がっています。ここから見る空も、地球の裏側から見る空も、等しく同じ空です」


彼と目が合った気がした。


「−−だから、大丈夫」


「−−そ……」


−−そんなこと言葉じゃない。私が聞きたいのは、そんなおためごかしじみた言葉じゃない。


そう、口を割って出かけた。


けれど、なぜか。

"大丈夫です"---この言葉に、私はなんだか妙に安心しまったのだ。


それどころか、力んでいた体が緩み、自然と笑いがこみ上げてきた。

何年ぶりだろう。こんな自然に笑えるなんて。


我ながら、なんて単純な人間なのだろうと思った。


私が笑ったことに気づいたのか、月並みですけどね、と彼は少し上擦った声で言い、こう私に聞いた。


「『あらしのよるに』って知ってます?」


もちろん知っていた。

嵐の夜に、狼とヤギが暗闇の中、互いの正体を知らぬまま、小屋で出会い、意気投合する話。


そして私は、彼の意図を察した。


そう、今の私達と似たような状況だ。どちらが狼で、どちらが羊かは、わかりようもないのだが。


「互いを知らないからこそ芽生えるものもある、ということです。近しい間柄から生まれるものもあれば、その逆も、ね」


そう、この暗闇を暴いてしまえば、今の関係性も距離も、なくなってしまう。見たいものもあれば、見たくないものまで見えてしまうこともあるだろう。


知ってしまえば、もう、戻れない。


何も知らない彼について、一つだけ確かに感じているものがある。


それは、彼も私も現実に打ちのめされていたのだと言うことだ。

だからこそ、現実とは違うこの距離を、触れない距離を、見えない関係を、心地よく感じたのだろう。


明日ここを発つという彼は、また違う現実へと向かうのだ。


逃れようのない現実、触れなければならい現実、見なければならない現実。


そうして現実へ向かおうとしている彼から、その思い出をも奪っていいのか。

どうしようもない現実から、一時でも逃れさせてあげられるのなら。


私は結論に達した。


---奪うべきではない。


私は、暴かない。この暗闇を。


私の沈黙を察したのか、彼はもう一度だけ、呟いた。


「さようなら」


私も呟いた。


「ええ、さようなら」


互いにそう言い合うと、同時に背を向けた。


これから向かうのだ。互いの現実に。


もうあの時間は戻ってこないけれど。それでも星空はあり続ける。彼と過ごした時間と共に刻まれた思い出も、星空と共にある。


それが例えごまかしだったとしても、星空だけは本物だ。


もし、もう一度、現実に打ちのめされてしまったら、またここへ来よう。


一縷の望みを抱いて。

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