短編集

晴耕雨読

現代ドラマ

『紙飛行機』


僕は私立大学の単願書を提出するか否かで迷っていた。


実はこういう事だ。


僕は幼い頃から絵を描くのが好きで、小中高と絵を書き続けて過ごしてきた。

当然、高校卒業後は美術大学に進学するつもりだった。


しかし、親には強く反対された。


それは、美大は卒業後の収入が私大と比べ安定していないことや、恐らく多くの「普通の子供」が進むレールから外れることへの危惧なんかが、反対の原因だった。


それに対して感情のままに反対するには、僕は育ち過ぎた。


親の意見が正当であることや、自分を心配しての意見であることがわかる歳になっていた。


加えて、美術で目立った実績を残せていなかった僕は、親の言葉に頷くほかなかった。


他の多くの子供がそうするように、自分を無理やり納得させ、騙し騙し日々を過ごした。


そして今日が、私大の単願書の提出締め切り日だった。


親に説得されてからというもの、単願書を書きはしたものの、どうしても提出までできず、職員室の前まで行っては引き返す、というようなことを繰り返していた。


しかし、今日はその締め切りだ。もう逃げる事は許されない。


もし、私大の単願書を提出すれば。

高めの成績を維持してきたし、素行も悪くない。まず間違いなく受かるだろう。

そして美大で専門的に学ぶ道は閉ざされる。きっと、多くの人が進む道へ行くだろう。


では、提出しなければ、どうだろう。

今日が締め切りだ。私大への単願は叶わず、親にはこっぴどく怒られるだろう。殴られるかもしれない。


けれど、美大の入試を受ける事はできる。

可能性は低いが、自分の望む道へ進めるかもしれない。


時刻は午後四時五十分。締め切りは五時。残り十分。


いよいよ、決断の時がきた。


職員室前の廊下は夕陽で茜色に染まり、廊下にたたずむ僕の影を長く伸ばしていた。


――もう、行かないと。


諦観と共に息を吐き出し、手元のファイルから単願書を取り出そうとした。

すると、隙間から何かがヒラリと落ちた。


それはノートの切れ端だった。


手に取ると、そこにはデフォルメされた猫のキャラクターが描かれていた。


それを見た瞬間、様々な思いが胸中を駆け巡った。


それは、僕が初めて描いたキャラクターだったこと。


たまたま描いたその絵が初めて人に褒められ、そこから絵にのめり込むようになったこと。


あの時感じた、湧き出るような嬉しさが、急激に胸の中に広がっていった。


しばらくの間、そうして呆けていた。





五時の鐘がなった時、僕は屋上にいた。


夕日も沈みかけ、遠くの景色は闇へと沈み始めていた。

屋上は風が強く吹いていて、髪が乱暴に踊っている。


その風に飛ばされないように注意して、紙飛行機を作った。


僕はフェンスに引っかからないよう、少し上向きにそれを飛ばした。


単願書で作った紙飛行機は強風に煽られ、ふらふらとよろめきながらも、遠くへと飛んで行った。


その後ろ姿が見えなくなるまで、僕はじっと見つめていた。

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