髪を切る

青水

髪を切る

 チョキチョキチョキチョキ……。

 髪を切る音は何度聞いても心地良い。この音を聞くと、自分が美容師になったことを強く自覚する。美容師になってから既に二年という月日が経っているのに、いまだ自分が成りたての新人のように感じる。

 最後に家族に会ったのはいつだっただろうか。確か専門学校を卒業したときに一度帰省して、それきりだったはずだ。ということは、もう二年も会ってないのか……。

 そろそろ、久しぶりに帰省しようか。そう思いつつも、結局帰れていない。長野の実家は東京からそこそこ遠いし、仕事も忙しく、気力がない。いや、俺はただ言い訳をしているだけだ。

 家族と仲が悪いわけではない。だが、特別仲がいいわけでもない。実家に帰ったところで、気まずくなるだけだろう。ちょっとした知り合いのように、ぎこちない会話をして気まずい空気が流れるだけだ、多分。

 どうして、家族のことを考えているんだろう? 何かきっかけと言えるようなことがあっただろうか。首を傾げる。


「お疲れ」


 店長に声をかけられ、はっと我に返る。気がつけば閉店時間になっていた。


「……お疲れ様です」

「黒野くん、赤城さん。床の掃除頼むよ」

「はい」


 俺と鈴奈は返事をする。

 美容院は清潔でなければならない。閉店後、店長を含めたスタッフ全員で店内を綺麗に掃除する。床には髪の毛が散らばっている。それらをほうきで丁寧に掃いていく。理想は髪の毛一本もない、鏡のように磨かれた床だ。

 俺がほうきを掃いていると、同じくほうきを掃いていた鈴奈が近づいてきた。


「ねえ、拓海」

「店では名前で呼ぶなって」

「いいじゃん。みんな私たちが付き合ってること知ってるし」

「いや、そういう問題じゃなくて、公私を区別するべきというかさ……」

「拓海はお堅いんだから」


 ふふっ、と鈴奈は笑った。


「じゃあ、黒野くん。さっきからずっと考え事をしてるようだけど、なに考えてたの?」


 俺は驚いた。考え事をしていたことが、鈴奈にバレていたことに。


「どうして、俺が考え事をしてたってわかったの?」

「他の人は多分気づいてないと思うけど、私にはわかるの。拓海のことは大体わかる」

「そっか」


 俺は少し恥ずかしい気持ちになった。頬をかきながら言う。


「実は、実家のことを考えてたんだ」

「実家? ご両親に何かあったの?」

「いや、もう二年も実家に帰ってないなってね」

「二年も? 私は年に三、四回は帰ってるけど」鈴奈は言った。「帰らないの? あ、もしかして、複雑な事情があったりするの?」

「いや、別に複雑な事情があるとか、家族仲が悪いとか、そういうわけじゃないんだ。ただ……なんか帰りにくいというか……」

「わけわかんない」


 鈴奈は首を傾げた。先ほどの言葉を否定するように。


「帰る帰らないを決めるのは拓海自身だけど、私は帰ったほうがいいと思う。家族も喜ぶと思うよ」

「うん」


 はたして俺が帰省して、家族は喜ぶのだろうか? 


 ◇


 家に帰り、スーパーで半額になっていた弁当を食べていると、スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前は、兄のものだった。


「もしもし」

『おう、拓海。久しぶりだな。元気にやってるか?』

「まあ、そこそこ」

『仕事、忙しいか?』

「忙しいけど……どうかしたの?」

『もう二年も帰ってきてねえだろ? たまには顔見せろよ』

「ああ、実はちょうど帰省しようと思ってたところなんだ」

『そうか、そりゃあよかった。いつ頃来れる?』

「月末にまとまった休みが取れると思う」

『わかった。二人に伝えとくよ』


 電話が切れた。

 兄と電話をするのは久しぶりだった。昔から変わらない兄の口調に懐かしさを感じた。

 兄は両親の後を継ぎ、農家を営んでいる。我が家は長野の田舎に広い土地を持っていて、そこで野菜や果物や花を育てて売っているのだ。

 俺と兄――どちらが後を継ぐか、揉めたことを思い出す。お互いに農業なんてやりたくなかったのだ。早く田舎を脱出して、都会に住みたかった。都会に対して意味のない憧れがあり、同時に田舎に住んでいることに対してコンプレックスがあった。今は田舎も悪くないと思えるようになった。

 結局、兄が折れてくれた。兄は大学をサボっていたので、卒業できる見込みがなかったから、というのが折れてくれた主な理由だ。農家をやってみると、これが結構楽しいんだ、と言っていたので、兄が継いで正解だったのだろう。

 帰省する際、お土産に何を買っていこうか、などと考えながら風呂に入った。


 ◇


 月末。

 有休を取得した俺は、長野へと向かう新幹線に乗っていた。東京駅で購入した駅弁を食べようとする。


「一口ちょうだい」


 俺は隣の席に座る鈴奈を見る。

 鈴奈は『私も有休取れたからついていってもいい?』と言ってついてきた。それは疑問形のようでいてそうではなかった。『ついていってもいい?』と尋ねつつも、実際には『ついていくね』という意思表示のニュアンスだったのだ。

 一応、兄に帰省する日を告げたときに、恋人を連れていく旨を伝えておいた。すると兄は『お前にも彼女ができたのか』と感慨深げな声を出した。


「なあ、鈴奈」

「なに?」


 俺の駅弁を頬張る鈴奈が、こちらを向いた。


「俺たち、結婚するのかな?」

「さあ、どうだろ」

「結婚するわけじゃないのに恋人を実家に連れていくのはおかしいだろ?」

「じゃあ、結婚する?」


 鈴奈はからりと屈託のない笑みを浮かべた。

 俺たちは今年で二三歳になる。この年齢で結婚するのは、世間一般的に見て早い部類だろう。しかし、早すぎるわけではない。既に結婚している友達も少数だがいる。


「もうすぐ、付き合って二年になるのか」


 専門学校を卒業して、今の美容院に就職してから、鈴奈と知り合った。同い年で同期ということもあり、すぐに仲良くなり、付き合い始めた。告白は俺がした。仕事帰り、駅へ歩いているときに『付き合ってくれ』と言ったのだ。それに対して鈴奈は一言『いいよ』と答えた。

 交際は今のところ順調だ。喧嘩をしたことはまったくないとは言わないが、どちらかが――あるいは両方が謝ることによって仲直りだ。


「あっという間だね」


 そう言うと、鈴奈は自分の駅弁を食べ始める。

 その横顔を見て、今でもかわいいと思える。これからも――結婚してからも、鈴奈のことをかわいいと思えるだろうか? もし思えるのなら、きっと俺は鈴奈と結婚するべきなのだろう。


「結婚、か」


 俺は呟いた。


 ◇


 長野に着くと、電車に乗って実家の最寄り駅まで向かう。長野県全体が田舎というわけではないが、実家周辺はまごうことなき田舎である。

 駅舎を出ると、すぐ前に黒のセダンが止まっている。サイドウィンドウが開いて、そこから兄が顔を出す。


「よう、拓海。大きくなったな」

「変わんねえよ」


 兄の軽口に、俺は半笑いで返す。


「隣のお洒落な子が彼女さん?」

「ああ」

「はじめまして。赤城鈴奈です」

「あ、どうも。兄の海斗です」


 俺と鈴奈は後部座席に座った。

 兄は運転しながら、いつものように――いや、いつも以上によく喋った。弟の恋人がどんな子なのかすごく気になるようだ。

 実家には一五分ほどで到着した。

 俺は車から降りると、家の前に立った。二階建ての年季の入った日本家屋。周りは畑と竹林、時々民家。

 取っ手を掴んで引いてみるとドアが開いた。鍵はかかっていないようだ。

 玄関のすぐ近くのドアが開いて、両親が出てきた。


「久しぶりだな、拓海」父が言った。

「久しぶり」

「彼女、連れてきたんだって?」


 母がそわそわとした様子で尋ねてくる。


「ん、ああ……」


 俺は後ろを向くと、自然風景を眺めている鈴奈に手招きした。鈴奈と、車を止めた兄がやってくる。


「初めまして。赤城鈴奈と言います」

「あら、美人さんねえ」


 母は嬉しそうににっこりと微笑む。


「付き合ってどれくらいになるの?」

「もうすぐ二年になります」

「あなたも美容師なの?」

「はい。拓海さんと同じ美容室で働いてます」

「年齢は? 拓海と同い年?」

「はい」


 次々に質問をする母と、律儀に答えていく鈴奈。

 父は軽く咳払いをすると、母に言った。


「何もこんなところで質問攻めにしなくてもいいじゃないか」


 それから、俺たちに言う。


「二人とも、上がりなさい」


 靴を脱ぐと、リビングのソファーに座った。

 大きなテーブルを隔てた向かいに、父と兄が座る。母が温かい緑茶を出してくれた。それと、和菓子とカットしたリンゴがテーブルに置かれる。


「あなたたち、結婚は?」母が尋ねる。

「まだ早いでしょ」兄が言う。「まだ二二だろ」

「そうかしら? 私がお父さんと結婚したのは二十……」

「俺が二五で、母さんが二二のときだな」

「ああ、そうだったわねえ。私が二二で結婚したんだから、別に早くないでしょ」

「今は三〇過ぎで結婚してない人もざらにいるよ」と兄。

「あら、そうなの? 晩婚化なのね」


 俺は緑茶をすすりながら、新幹線での会話を思い出す。


『結婚するわけじゃないのに恋人を実家に連れていくのはおかしいだろ?』

『じゃあ、結婚する?』


 鈴奈と付き合って二年弱。交際期間が長いとは言えないが、期間が長ければ長いほど結婚が近づくというわけでもない。逆に遠のいていくことだってある。


「結婚、するつもりだよ」


 俺がそう言うと、鈴奈は驚いた顔をした。何も言わないが、嬉しそうな顔をしている。


「いつ結婚するんだ?」父が尋ねた。

「今年中」

「鈴奈さんのご両親には挨拶したのか?」

「いや、まだしてない」

「そうか。できるだけ早く挨拶してきなさい」


 結婚についての話はそこで終わった。

 それからは主に仕事の話をした。美容師になってから帰省するのは初めてだったので、両親は俺の仕事ぶりを聞きたがった。

 職場の同僚でもある鈴奈がいろいろと話した。早くも俺の家族と打ち解けている。俺は鈴奈の家族とこんなに打ち解けることができるだろうか?

 実家に帰っても気まずくなるだけだと思っていたが、案外そんなことはなかった。どうしてだろう。社会人になったからだろうか。二年の社会人生活が俺の考え方を変えたのか――それはつまり、子供だった俺が幾らか大人になったということ。子供の反骨心じみたものが、家族とのぎこちなさを生み出した要因となっていたのか……。

 一通りの話が済むと、鈴奈が「あ、そうだ」と言った。


「髪、切ってあげたら?」

「髪?」

「お父さんお母さんの」


 鈴奈の提案に、母は首を振った。


「私は美容院行ったばかりだからいいわ。お父さんの髪、切ってあげて」


 五〇半ばの父の髪はほとんど白髪だったが、毛量は豊富だった。しばらく切ってないだろう髪は、もじゃもじゃと伸びている。

 廊下に新聞を敷き、真ん中に置いた椅子の上に父が座る。

 ハサミなどの道具は、鈴奈が持ってきていた。『あ、そうだ』などと思いついたように言っておきながら、最初からその提案をするつもりだったのだ。

 霧吹きを使って髪を湿らせ、ブラシで丁寧にとかす。それから、ハサミで大胆に切っていく。完成形のイメージはできている。後はそれを忠実に再現するだけだ。

 髪を切る度、切られた髪が地面にばさりと落ちる。この音も好きだ。自分が美容師であることを実感できる。

 チョキチョキチョキチョキ……。

 髪を切る様子を、母と兄と鈴奈は黙って見ている。父も黙ったまま石像のように動かない。

 一五分ほどで髪を切り終えた。大きな手鏡を渡すと、父は手鏡を見てふっと笑った。


「うまいじゃないか」


 父に褒められたのが、無性に嬉しかった。


 ◇


 三泊して、俺と鈴奈は実家を後にした。

 帰りの新幹線。駅弁を食べていると、鈴奈が微笑んで言った。


「結婚、本当にしてくれるの?」

「うん」

「今年中に?」

「今年中に」

「じゃあ、お父さんが言ってたように、早く私の両親に挨拶してよ」

「わかった」

「それと、結婚するんだったら同棲しようよ」

「そうだね」


 今年中に結婚する、と両親に宣言した。もしも実家に帰らなかったら、結婚という言葉を口にすることは当分なかっただろう。だから、帰省してよかった、と心からそう思う。

 明日から日常に――仕事に戻る。

 髪を切るのが俺の仕事だ。お客様の要望に合わせ、素敵な髪型にする。彼らは仕上がりに満足して去っていく。

 毎日毎日、同じことの繰り返し。しかし、俺は飽きも退屈もせず、チョキチョキと髪を切り続ける。それが仕事だから。

 髪を切るのは楽しい。仕上がりに満足したお客様を見るのは嬉しい。きっと美容師という仕事は俺にとって天職なのだ。

 駅弁をおいしそうに食べる鈴奈を見ながら、俺は明日からの日常に思いをはせた。






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髪を切る 青水 @Aomizu

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