第79話 夜の川岸で聴く、ラジオの詩の朗読



 

 蔵の町を気持ちのいい夜風が吹いている。

 そぞろ歩きを楽しみたくなる夜半だった。


 黒いカバンを肩から提げた上原和也は、街中を流れる瀬木川畔へ文花を誘った。


 ――高校生の恋人ごっこじゃあるまいし、川原で愛を語ろうって魂胆なの?


 思ってもみなかった展開に、文花は呆れ、少し身構える。

 横目でうかがうと、つい先刻と異なり、はっとするほど生真面目な顔付きになった上原和也は、川面に近い草むらにハンカチを敷き、文花が座る場所を作ってくれた。


 肌身離さないショルダーバッグから取り出されたのは、予想もしないものだった。


 ――え、携帯ラジオ? なぜいま?

   意味がわからないんだけど……。


 昼間は放し飼いの山羊や家鴨が遊ぶ川端が、夜間のいまは別世界になっている。

 商店街の華やかなイルミネーションが、流れゆく川面をチラチラと這っている。

 その隙間に揺らめいているのは、おぼろな下弦の月だった。


 文花のすぐそばに腰を下ろした上原和也は、驚くほど真剣な口調で語り始めた。


「おれ、学生時代からマイナーな詩人に私淑しているんだ。今夜、番組で詩人自身による作品の朗読があるから、ふうかりんと一緒に聴こうと思って持って来たんだよ」


 ひと言の疑問を差し挟む隙もなく、いきなり放送が始まった。マンボズボンのシワも厭わず、草の上にきちんと正座した上原和也は、厳粛な面持ちで聴き入っている。


      *


 抽象的で、ほとんど意味不明の番組が終了したのは、それから1時間後だった。

 感に堪えない様子の上原和也は、壊れ物を扱うようにそっと文花の肩を抱いた。


「最後まで付き合ってくれてありがとう。川面に浮かぶ下弦の月、忘れないよ」


 ――なんだろう、この劇的な豹変ぶりは……。


 上原和也の赴任地の若い娘たちが次々に惑乱させられた原因は、この怪鳥のような怪人の常軌を逸した振幅の大きさにあるのかも知れない……文花は冷静に観察する。


「ねぇ、いいだろう? きみの家まで送らせてよ。このままふたりで歩きたいんだ」

 そう言いながら上原和也は、文花の背にまわした腕に、みっしりと力を籠めた。


 ――ねえ、それって本気で言ってんの? 

   郊外のわが家まで1時間はかかりそうなんだけど。


 この場から一刻も早く逃げ出したい。

 いや、翡翠書房の命運を託されている身として、ドキュメント写真集『映画「さよなら、ジロー」主演女優殺人事件』の成就を、あくまで優先させなければならない。


 公私を秤にかけた文花の気持ちは、イルミネーションの川面のように揺れている。

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