第62話 百目鬼肇はモンスター・クレーマーだった



 

 午後0時半――。

 貫太郎と曽山刑事は新宿駅にもどり、立ち食い蕎麦を掻きこんだ。

 噴き出たくて手薬煉てぐすねを引いていた汗がどっと出て、ふたりは堪らず上着を脱ぐ。


 冷房で涼んでひと息ついてから湘南新宿ラインに乗ると、半年前、ある事件の聞きこみで大磯に行ったときの記憶があざやかによみがえって来た。


 著名な文学者の曾孫に当たる人物が、海岸沿いの古びた日本家屋に住んでいた。

 と言っても10代で単身渡航し、現在はレスブリッジ大学名誉教授の肩書を持つ男の本拠地はカナダで、夫人を伴う日本滞留の常宿として、曽祖父の家を使っていた。


 ――定年退職後にスケッチブックを携え、世界のどこへでもビーチサンダル履きで出かける流浪の老画家は、いまごろ、どこの国の風物を描いているだろうか……。


 乗り心地のいい電車に揺られながら、貫太郎は柄にもない感傷に耽った。


      *


 JR赤羽駅近くの利便な場所にメタリックな外装の高層マンションが聳えている。

 日当たりのいい6階の角部屋が『フリーター豚・ジロー』の著者の現住処である。


 高砂城北高校を最後に定年退職した百目鬼肇は、自宅を売って東京に移転した。

 江戸末期からつづく高砂っ子が、還暦を過ぎて生まれ故郷を捨てて都会へ出た。

 直接の理由は親戚内の揉め事とも、短歌仲間のいざこざともうわさされている。

 

 マンションの管理人は、百目鬼肇の名前を出しただけで眉間に険しい皺を寄せた。


「はぁ? 百目鬼さん、今度は警察沙汰ですか?」

「と言いますと、以前にもなにかあったのですか?」

「なにかどころの話ではありません。この仕事、15年になりますけど、あの人ほど厄介な住人はいません。あそこまで行くと、立派なモンスター・クレーマーですわ」


 管轄外の警察手帳の気楽さもあってか、管理人の訴えは易々と堰をきる。


「つい先日も、エントランスの床が汚れていると、それはもう大変なお叱りようで。いえね、たまたま家内が体調を崩して寝こんでいたんで、行き届かなかったこっちもわるかったんですが……。でも、刑事さん。こういうことってお互いさまでしょ?」


「あれですかね、何事にも完璧を求めずにいられないタイプなんですかねえ」

 貫太郎が浅く相槌を打つと、青いジャンパーの管理人はさらに勢いこんだ。


「そればかりじゃないんですよ。やれ上の階の音がうるさいの、やれセキュリティ・システムに不備があるのって、それこそ年柄年中なんですよ。そりゃあねえ、幼い子どもがいれば多少は音も立ちますよ。外出から帰った住人に付いて不審者が入りこんだと責められてもね、こっちだって24時間見張っているわけじゃないんですから」


「でしょうね」貫太郎は軽く受け流す。


「でもってね、尋常でなく、しつこいんですよね。そう、まるで昆虫が虫を突っつくように、いじいじ、いびり通すんですから。聞くところによれば、田舎の高校の教師だったそうですが、気に入らない生徒は徹底的に苛め抜くタイプですな、ありゃあ。ここだけの話、うちの家内が寝こんだのだってね、刑事さん、もとはと言えば……」


 管理人の愚痴は途切れそうもないので、貫太郎は話題の転換を図った。


「金銭面では、どうですか? 取り立てて吝嗇とか、あるいは、逆にルーズとか?」

「それはあなた、徹底した締まり屋です。ええ、1円たりともおろそかにしません。財布も奥さん任せにできず、家計簿まで自分で付けてるってえ話ですからねえ」


 一連の申し立ては、曽山刑事が録音と並行して克明なメモを取っている。


「ところで、百目鬼さんは短歌誌『日輪』の代表もつとめているようですね。同人の獲得に熱心だと聞いていますが、このマンションにもいらっしゃるのでしょうか」


 貫太郎がもうひとつの核心に迫ると、管理人は再びげんなりしてみせた。


「ほんとにもう、それにも、ほとほと困っているんですよ。当マンションでは居住者への勧誘活動は一切禁止なんですが、元教師のくせして、あの人はルール違反なんぞどこ吹く風ですからねえ。でも、入口で勧誘ビラを配ったときは、さすがに……」

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