第50話 貫太郎の片恋の相手は宝月文花だった


 

 だが、録音の百目鬼肇は、さらに、とんでもない不平を言い募り始めた。


「本のタイトルにしたってそうなんだ。ぼくは、オーソドックスに『野良豚物語』と付けておいたんだが、ええと、なんと言ったかな、あの女社長の娘、あの子が勝手に『フリーター豚・ジロー』などと、らちもない書名に変えちまったんだ。当初のぼくの案にしておいたら、いまの倍、いや3倍は売れたろうに、無念でならんよ」


 ――はぁ? ご冗談を。


 動物小説の大家として知られる椋鳩十先生じゃあるまいし、『野良豚物語』なんて凡庸なタイトルでは、一顧だにされなかったはず。無名の著者の、それも、教職員や生徒の文章のモザイク作品が注目を浴びたのは、文花の命名センスが抜群だったからだろうに……。母校の元教師の身勝手極まりない言い草に貫太郎は拳をふるわせる。

 

 一方、まったく別の意味で、全身が熱く火照ったのは、当の宝月文花の可愛らしい声がボイスレコーダーから流れ出たときだった。相変わらず「さ行」の発音が、やや舌足らずな話し方を聞かされると、高校時代の甘酸っぱい想いが一気によみがえる。


 華奢でスリムで儚げで……。

 真っ直ぐ見詰められたら蕩けてしまいそうな漆黒の眸。

 煙るようにやさしげな眉。

 すっと細い鼻梁の下に、思わず触れたくなるような蕾の唇が、ふっくりと艶っぽく笑んでいる。なにより貫太郎を捉えて離さなかったのは右目の下の泣き黒子だった。


 ――あの黒子の囁きを聞いてしまったら「自分の手で、この子を守ってやりたい」と思わない男がいるだろうか。


 素直な文花の供述を聴きながら、高校時代の片恋を偲ぶ貫太郎の脳裡に、突如、苦々しくよみがえったのは、翡翠書房の香山営業部長の清々しい好漢ぶりだった。


 ――いまごろ文花は、あいつに守られているのか。

   本来ならこのおれが守るべき宝月文花は……。


 そう思うと、ジリジリと胸が痛んだ。

 妬ましい。妬ましい。妬ましくてならない。

 こんなところで椅子に座ってなどいられない。

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