第七話

 7:

 武玄組。


 大きな門を通ってみれば、遠近感覚がぐらつきそうな広い敷地。目の前いっぱいに広がる、佇まいからして風格が違う荘厳な日本屋敷作り。あっちは中庭だろうか? 松の木が見える……。


 玄関口にはぴっかぴかに輝くニスの深い色をした木材が壁のように――これは、屏風だった。


 木で出来た屏風には巨大な龍が、美術彫刻ようなタッチで描かれている。


 磨きに磨かれた廊下は光る道のよう。まったく静かで、床板は靴下越しですらその木材の分厚さが感じられた。


 廊下の前から、男が一人向かってこちらに歩いてきた。


「よう、松コー」


 少し前を歩いていた兄が、手を上げてその相手に軽い挨拶をした。


「おう、龍坊。それが例の妹か」


 松コーと呼ばれた男性は、兄龍之介よりも背が高く体格の大きい……明らかに兄より年上、屈託無く挨拶を返す。


「ああそうや。可愛いやろ?」

「で、息子の嫁にくれるんだろ?」

「ばーか、あんな饅頭顔になんかにゃ、もったいねぇっつーの」

「ちげぇねえ」


 あっはっはと二人して笑う。


 ――今なんだか、ものすごく不安な将来についての会話があったような。


「逃げやがったのがようやっと尻尾を出しやがってよぉ。これからちょっくら取りに行ってくるぁ」


「取り屋の松も、夜逃げで取れなくなったっつーんじゃ、ただの松にしかならへんの」


「大きなお世話だっつーの!」


 あっはっはっはっはと同時に笑う二人。


 松と呼ばれた男が兄の背中を一度平手で叩いた。それからぴたりと笑いを止めて、兄の耳へ顔を近づける。


「親父、ちょっとばかり機嫌が悪いみたいや……気ぃつけい」

「ああ、わかった。あんがと」


 小さい会話だった。


 さらにひそひそと、聞こえないぐらいの声量で話している。


 取り屋って、何を取りに行くのかはきっと知らない方が良いんだよね……それよりも、組長さんが機嫌が悪いって話のほうが重苦しいって……。


 兄との暮らしにはだんだん慣れてきたが、ここの空気はおそらく一生慣れないだろう……いや、慣れてはいけない――と固く思う。


 ――――――――――――――――――――――――


「龍之介です」


 両開きの襖の奥から「おう、入れ」という、まるで深く唸るような返事が聞こえてきた。


「失礼します」


 いつものふざけた調子が一切無く、緊張した面持ちの兄が静かに襖を開けて入る。雑な音を出しただけでも、すぐに死刑宣告をされそうな……そんな空気が流れていた。


 兄に続いて、私も入る。


「相変わらず品の無い現れ方やの、龍之介」

「申し訳ありません」


 何がどう無粋だったのかが分からなかった。知る限りの中でも、初めて見る兄の真面目な仕草と、大人しい態度だったのに。


 中に入ると、兄が慎重に音を立てず襖を閉めた。


「燕」


 小声の兄に促され、二人そろって正座する。

 ゆっくりと静かに兄は頭を下げて。


「親父……俺の妹の燕です」


 兄や秦太郎さん、番太さんも源之助さんも皆、親父と呼ぶ――


 武玄組組長――武玄龍道。


 龍道が低い声音で「うむ」と唸った。


 荒々しい岩のような表情の頭には、老年らしく白髪の短髪が。着物姿に兄と似た感じの羽織を肩に乗せ、木製の座椅子と座布団の上に鎮座していた。


 ただ厳つい顔をした着物姿の老人――というわけではなく。その龍道が取り巻く空気は、静かに構える猛獣などという気配を超えた……そう、年齢を重ねた強大な龍が、どこか気だるそうにこちらを見ているように感じられる。


 もし、きつく絞られたような視線を浴びせられたなら、窒息か圧死でもしてしまいそうだった。


 龍道、組長さんがこちらを――私を見て。


「すまんの、こんなむさ苦しいとこに呼んじまって」

「い、いえ。とても綺麗で、静かな場所だと思います」


 なぜか、心臓のあたりが締め付けられているような気がする。


「龍之介」

「はい」


 今度は兄へ。


 組長の唇の端が釣り上がった。しかし顔の下半分の口元だけが動いただけ。


 人間はよほど厳しい環境で感情を押し殺し続けていない限り、心境や心の動きで表情が必ず変わる……心と顔の表情は繋がっていて、心の様子は表情やら言動で他者へ見えるように、必ず表に出てくるものだ。


 なのに龍道という武玄組の組長の感情表現は、口元がわずかに変わる程度だった。


「お前と違って世辞が出来る……良い子じゃねぇか」


 強張った表情をする兄の横顔。私が見る限り初めてだった。


「まぁ、こんなところで気ぃ抜いて、着物の物色なんて出来る奴ぁ、よほどの馬鹿でしかあるめぇよ……なぁ、龍之介よぉ」


「恐れ入ります」


「頭、上げてええぞ」


「はい」


 ずっと頭を下げて伏したままの兄が、ようやく頭を上げた。

 龍之介の返事は無視して、再び組長が私へ。


「年端もいかねぇ女にゃ、息苦しいだろうが……まぁ慣れてくれや」

「はい……」


 あまりの息苦しさに、短い返事しか出来なかった。


「んで――」


 組長さんが再び口を開く。


「これから行ってくるんか?」

「はい。これから、燕の母親の所へ……行ってまいります」


 兄の龍之介がそう言いつつ、深々と頭を下げた。

 私と兄の龍之介は兄妹だ。


 ただし、母親が違う。


 厳密に言えば、戸籍上では兄妹ではなく、腹違いの兄と妹。

 私には私の方の母親がいて、兄には兄の母親がいる。


 そして、私の方の母親の所在が分かった。


 私はこれから、自分の母親のところへ……会いに行くのだ。

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