アニいもうと
第一話
1:
何かがおかしい――
「さあ、ここが俺の部屋だ。そしてお前がこれから暮らす場所だ」
兄がアパートの玄関に入るなり言ってくる。
飛高龍之介。
それが、この初めて会って間もない、兄の名前だ。
私は柴田――ではなく。
苗字が変わり、私は飛高燕という名前……になった。
兄が開けたドアをくぐると、綺麗というよりもむしろ、こざっぱりとした居住空間が広がっていた。
だが――
「?」
妙な違和感がする。
ああそうか、部屋がきれい過ぎるんだ。
きれい好き?
黒い革のソファーは新品同様のようにぴかぴかに光っており、フローリングの床には、ワックスがかけられたばかりの臭いが。
生活臭がしない。兄のにおいと、部屋のにおいがまったく違うんだ。
右手の方向を見やると整理整頓された食器類に、まったく使われていない清潔なキッチン……使った形跡が見えない。
何か一つくらい、雑誌とか小物類とかが、床に転がっててもおかしくないのに、床にはカーペット以外、何一つなかった。
そう、この室内はまったく生活感というものが見えないんだ。
「コジローはどこじゃろなーっと、昼寝中か」
「コジロー?」
聞き返すと、兄が辺りを見回しながら返してくる。
「飼ってる犬だ。ちっこい変な顔の」
「犬種は?」
「なんだったかな? だ……だっくすふんど?」
飼っているのに、愛犬の寝床どころか、犬種も知らないの?
リビングの入り口に立ったまま、愛犬? を探す兄を目で追っていると、
気配を感じた。
背後にある玄関へ目を向ける。
――パタン
「へ?」
振り向くと同時に、玄関ドアの閉まる音がした。入ってきた時にちゃんと閉じたのを見たはずだが。
誰かに覗かれていた?
「あー、いたいた。コジローはっけーん」
兄へ向き直ると、奥の部屋――暗がりの先にベッドが見えたので、おそらく寝室だろう――そこから子犬を抱いた長身の兄が戻ってきた。
「それ『パグ』じゃん……」
兄の抱いている小型犬は、パグという犬種の子犬だった。
「ああそうそう、パグだった。パグのコジローだ。悪いおっさんみたいな顔だろ?」
「ダックスフントじゃなかったの?」
胴長のダックスフントと、ブルドッグのようなパグ、どう間違えるはずも無いのだが……さすがに間違えて覚えてた、なんて事はないだろう。
「それ、本当に飼ってるの?」
実際にここに居るのだからそうなのだろうが、念のために聞く。
「おう、そうだ。甘えんぼさんでな」
ぐるるるるる――
「ものすっごく不機嫌に唸ってるけど?」
「寝起きで機嫌が悪いだけさ」
本当にそれだけなのだろうか? と思った矢先に。
がぶり!
パグ――コジローが兄の手に噛み付いた。
「ってぇな! このワン公っ!」
兄が噛み付いてきたコジローを振り払う。
コジローは、フローリングに一度腰を打ち付け、バタバタと慌てふためいて寝室へ逃げ込んでいった。
「おー、いってぇ……」
噛み付かれた手をさする兄の龍之介。
その姿を、半眼に眺める。
――怪しい。
思えばアパートのエレベーターの時も、自分の部屋がある階を間違えていた。
住んでいるのに、何にもないような気持ちのする部屋。飼っているはずなのにまるで懐いていないペット。
「ここは本当に、お兄さんの部屋なの?」
いい加減、兄へ問いただす。
「ああ、そうだ」
即答。
「…………」
しかし、即座に受け答えた言葉は、余計に怪しく感じられた。
他に何をどう聞けば分からず、兄へ疑いの視線を送っていると、
兄龍之介が微妙に目を泳がせながら。
「そ、そうだー喉が渇いただろう。何か飲むか? そこに座ってろ、疲れただろう? そうだろう! なあなぁ!」
忙しない足取りで兄は、私の背中を押してソファーへ促す。
ソファーに座ると、そのまま兄は冷蔵庫へ向かっていき、冷蔵庫を開けて中を見て――
「ちっ」
なぜか小さく、兄が舌打ちをした。
「ちょっと外で買ってくるわ」
「え? あの、ちょっと――」
やたらと早足で玄関へ向かって行き、そして出て行ってしまった。
「…………」
突然に、しんと静まり返った室内。
ふと耳を澄ますと、外から「酒しか入ってねぇじゃねぇかっ!」という遠い怒鳴り声と、何かがぶつかったような音が、わずかに聞こえてきた。
今の声は兄の声?
「…………」
立ち上がって、燕が冷蔵庫へ向かう。
冷蔵庫を開けてみると――
カップ酒、ビール、サラミ、ミックスナッツ――お酒と簡単なおつまみと、透明な袋に入ったまま未開封の……野菜室にすら入っていない野菜たち。
塩コショウの調味料も、量が減っていないどころか、どれも未開封のまま。
使った様子どころか、買ってそのまま入れただけの物ばかりだった。
次は下にある冷凍庫を開けてみる。
ロックアイスと呼ばれる氷の入った袋と、スーパーで売っているようなバニラ味の箱アイス……なぜか箱アイスだけは開いていて、八本入りのうち二本がなくなっていた。
どれも買ったばかりの物しかない。(何故箱アイスだけ開いていたのかは不明)
――ここは一体、なんなの?
次は寝室へ。
寝室へ入り、暗がりの中――部屋の角に、先ほどのパグがいた。
たしかコジローという名前の子犬。
部屋の中で縮こまっていて、暗がりでも伝わってくるほどに警戒心が見て取れた。
怯えている?
恐る恐る近づくと、コジローが小さく唸り声を上げた。これは明らかに、昼寝を邪魔されて機嫌が悪くなっている様子ではない。
「ほら、怖くないよ」
コジローの前にしゃがみ、手を鼻先まで伸ばす。
警戒心がむき出しのコジローは……伸ばしてきた私の手をじっと見つめた後、固まっていたかのようなぎこちない動きで、指先へ鼻を近づけた。
「大丈夫だよ」
優しく言ってみる。
コジローは一度、こちらの顔を見て、もう一度手へ視線を戻し――遠慮がちに伸ばした手の指をひと舐めした。
どうやら、私が怖くないのだと伝わったらしい。
――なんだ、懐くんじゃん。
兄のように噛み付かれるのではないかと、内心ヒヤッとしていたが、ほっと息をつく。
コジローを見ていると、なんとなくこの子犬も、私と同じ心境なのではないか? と勝手に思ってしまった。
まさかね。
苦笑。
「よっこいしょっと」
コジローを抱き上げた。
一度だけコジローはびくりとしたが、なすがままに私の胸の中で大人しくしてくれた。
コジローを抱いたまま、リビングへ戻る。
ソファーに座り直し、コジローを膝の上に乗っけると、コジローは寂しそうに「くーん」と鳴いて擦り寄ってきた。
頭を撫でてやると、コジローの緊張した顔がようやく柔らかくなっていく。
ここは一体、なんなのだろうか?
これではまるで……そう、カタログとかにある『見本』っていうのに近い。
「ただいまーっと」
玄関から兄の声。
膝の上で、コジローがびくりと起き上がった。
コジローが慌てて寝室の暗がりへ逃げ込んでいってしまう。
「外でダチに会ってさ、連れてきた」
「初めまして、宇道秦太郎と申しやす」
兄の連れてきた友人は、ダークスーツにオールバック。びしっとした雰囲気というよりも、落ち着いた中になんだか凄みを持ったような人物だった。
「そこ座っとけ」
兄が軽い口調で言うと、友人の宇道秦太郎さんが短く返事をした。「おう」と聴こえる「ああ」の低い声で。
なぜかその人は、ソファーに座っている私と向かい合って腰を下ろした。
「…………」
「…………」
無言。そして何故だか分からないが、ものすごく張り詰めた、気まずい空気が流れる。
もう重い。
なんだかよく分からないが……重い。
むしろ、この部屋に入ってからというもの、気の休まったためしがなかったのだが、よりいっそう、重くなった空気を感じる。
向かいに座る秦太郎さんと目が合う――視線を逸らされてしまった。
時間が長いよ……たった数分が長いよ……。
ふと、秦太郎さんの背後――寝室のドアの隙間から、コジローがこちらを覗いていた。
コジローとも目が合うと、ひょいっと奥へ引っ込んでしまい……助けてもらえなかった。
長い長い数分間を経て、兄がガラスコップと菓子袋、ジュースの入ったペットボトルを持ってやってくる。
兄が秦太郎さんの前へガラスコップを置く――だが、秦太郎さんはそれを手で制し、
「いや、お二人には積もる話もあることでしょう」
突然に切り出した秦太郎さん。
「燕さんの事は、龍之介から聞いておりやす。どうせロクなものも作れないのが龍之介。今晩はあっしが夕食をお作りいたしやしょう……あっしのことはどうかお気にせず、お二人でゆっくりと団欒して下せえ」
やす? あっし? くだせえ? どこの方言?
「燕さん」
「は、はいっ?」
つい声が上ずってしまった。秦太郎さんは丁寧口調ながらも、腹の底から響くような声だ。なんだか迫力がある。
「カレーは、お好きですかい?」
「おお、俺食いたい」
「お前には聞いちゃいねぇ」
ぴしゃりと兄ヘ言い放つ秦太郎さん。まるでボケへ即座にツッコミを入れたような、すばやい返しだった。
「どうでしょう?」
「え、ええ。わりと……」
「では僭越ながら、あっしがお作りいたしやしょう……男の手ですが、ご勘弁を」
床に両拳を置いて。秦太郎さんが前屈みになった。
「……おねがいします」
さすがにお辞儀を入れてまで言われたら。こう言うしかなかった。
お辞儀ってこうやるんだっけ?
なんでそこまで? という疑問すら、言える余地もない。
「では、失礼しやす。ごゆっくりと」
秦太郎さんがすっと立ち上がり、スーツの上着を脱ぎながら冷蔵庫へ向かって行く。
あれ?
何故部屋の冷蔵庫の中身を、秦太郎さんは知っているのだろう?
たしかに冷蔵庫の中にはお酒とおつまみと……カレーの食材が揃っていた。
どさり
突然隣に座った兄がふう、と息をこぼす。
秦太郎さんを目で追っていたため、軽く驚いた。
「…………」
「…………」
飛高龍之介。
つい最近になって、存在をようやく知った。私の兄。
血縁はあれど、十六年間も……兄は私が生まれていた事すら知らなかった。
私も知らなかった。
自分より五年以上も昔に、兄が生まれていたなんて。
何を話せばいいのか……話題がどうにも見つからない。
いいや、実際はあった。
今までどう過ごしていたのか? 親の事を覚えているか? それならどんな人だったのか? 今は何をしているのか? ……これからどうするのか?
だけど。
声に出せない。何を言えば良いのかわからない。
なぜ話しかけられない?
隣にいるのは、人として最も近いお互いで
自分より早く生まれたはずの人で
自分に似ているのに。
なのに――わからない。
間にある空間が、
本当に何もない――
湯が沸く音と、包丁でまな板を叩く音がする。
キッチンから鳴る音が聞こえてくるほど、二人の居るリビングが無音だった。
兄の咳払い。無言。
兄が尻の位置が悪く感じ、もぞもぞと座り直す。
私は私で足先の絨毯の毛をいじる。
兄は手の指を反らしたり揉んだりで、関節を鳴らした。
私もソファーに座り直す。咳払いも。
カレールーを溶かし始めたのだろう。カレーの香りが漂ってきた。
ぱちりとスイッチの音。続けて換気扇が回った音。
早炊き機能で動かしていた炊飯器が、出来上がりのアラーム音を鳴らす。
――その間、一切の言葉を交わせないまま。
寝室から「くーん」という鳴き声が、よたよた歩いてきた。
コジローが、カレーの匂いに我慢できず、寝室の暗がりから這い出てきたのだ。
「あ、コジローちゃん」
コジローがこちらに気づいた。
「こっちにおいでー」
呼びかけに、コジローは兄を見て一度だけ尻込みをしたが、ぽてぽてと兄を迂回して寄ってくる。
素直に持ち上げられて、コジローは膝の上に乗った。
「よーしよーし」
コジローの頭を撫でてやる。
「……犬は、好きか?」
兄の声。
「う、うん……昔から飼ってみたいなって」
「飼えなかったのか?」
「施設だったから」
「そういえばそうだったな」
「うん……」
……会話が途切れる。
かと思もえば、
「俺は」
兄が口を開いた。
「俺はお前の兄貴、だ。だから……お前の暮らしも、これからも、その、俺が……俺がちゃんと守っ、てやる。何も心配する必要は無い……からな」
もごもごと歯切れの悪い言い方をする兄。不意にコジローを撫でていた手を止めてしまう。
顔ごとそっぽを向いた兄の……表情が見えない。
「……うん」
膝に乗っている子犬、コジローへ視線を落とす。
コジローの耳をいじると、嫌そうにコジローが鳴いた。
会話がまたなくなって――
しばらくして秦太郎さんが、カレー鍋を持ってリビングへ戻ってきた。
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