おかしな魔法使い

C-take

眠れる月の歌姫

 これは『三日月ヶ丘高校の歌姫』こと、私『藍澤美咲』が、まだこの高校に入学して間もない頃の物語。


 歌が大好きだった私は、いつも屋上で歌っていた。歌っている時は、本当に気持ちが良くて、嫌なことなんかすぐに忘れられる。けど、いつからだろう。周りの人達が、勝手に私の歌を評価し始めたのは。確かに、大好きな歌のことで誉められるのは嬉しい。けど、歌姫と呼ばれるようになってから、それは変わった。噂は一人歩きして、あることないこと、どんどん大きく膨らんでいく。気が付けば、私は学校内でその名を知らない人が居ないと言うくらい有名な、偶像アイドルになっていた。


 私の歌を聞けば、誰もが上手い上手いと持て囃す。私が道を歩けば、皆馬鹿みたいに道をあける。私のことをろくに知りもしないクセに、好きだの付き合って欲しいだのと、交際を迫られたりもした。こうなってくると、歌を歌っていても、全然気が晴れない。最近は特に、思う様に声が出ないから、何を歌っても酷い有様。それなのに、周りの皆ときたら、上手い上手いの一点張り。結局、彼らが見ていたのは、初めから私なんかじゃなかったんだ。ちょっと見た目が華やかで、ほんの少し歌が歌えるだけの、お金持ちの家のお嬢様。そう。彼らが見ていたのは、藍澤という名のブランド。それに気付いた時、私は歌が好きという気持ちを失ってしまった。




 今日も私は歌う。もうすぐ合唱部のコンクールがあるからだ。本当は歌いたくなくなんかない。でも皆が歌えと言うから。コンクールに出ろと言うから。


 昼休みの屋上。私以外に人影はなく、私が歌っていなければ、そこには人の居る気配なんて微塵もない。


 私は歌い始める。前は歌っているだけで心躍ったものだが、今となっては、それはもう遠い昔。ただメロディーに沿って、歌詞を連ねていくだけ。はっきり言ってつまらない。何でこんなことをしているのかと思う時もあるが、歌を歌わなくなったら、きっと私の居場所は、この学校のどこにもなくなってしまう。そう思ったから、私はただ歌っている。


「おい、あんた」


 私は歌を止めて振り返る。どこから現れたのか、気だるそうに頭を掻く男の子が一人。いかにも寝起きですといった感じの彼は、見た目だけならかなりかっこいい部類に入るだろう。しかし、何もかもがかったるいと言わんばかりの表情は、お世辞にもかっこいいとは言えない。


「何でしょう?」

「へたくそな歌で安眠を妨害するから、文句を言いに来たんだ」


 へたくそ。その一言に、私は衝撃を受けた。今までに、一度だって言われたことのない言葉だったからだ。


「歌姫なんて言うから、どんなにすごいものかと思っていたけど、大したことないな。て言うか、あれじゃ、ただの騒音だぜ」


 彼はいかにも腹立たしそうに頭を掻きむしる。


「まぁ、いいや。眠気もそがれたし、教室戻っかな」


 それだけ言うと、彼はさっさとドアの向こうに消えてしまった。後に残ったのは、私と、屋上の冷たい風だけ。


「へたくそ」


 私は彼の言葉を反芻はんすうする。心に風が吹いた気がした。


『何がへたくそなの?』


 もう私の他には誰も居ないはずなのに、足元から声がする。ふと見下ろすと、そこには一匹の白いメスの子猫。私は最早見知った顔の、その子猫を抱き上げ、顔の前まで持ってくる。


「ヒメさん。私、歌がへたくそだって言われちゃいました」


 ヒメというのはこの子の名前。誰がつけたのかは知らないけど、かわいらしい名前だ。


『誰がそんなこと言ったの? ヒメは好きだよ。美咲ちゃんの歌』


 表情までは読み取れないけど(だって猫だし)、声の感じでちょっとむくれているのがわかる。


 そう、私は動物と話すことができるのだ。正確にいつからかは覚えてないけど、小学校に入るか入らないかくらいの頃からだったと思う。いつだったか両親にそのことを話したら、無理やりお医者様のところに連れて行かれたことがあった。だから、今では誰にも話してない。知っているのは、私と、話をしたことのある動物達だけ。


「ありがとう。うんとね、顔はかっこいいけど、何か不機嫌そうって言うか、眠そうっていうか、まぁそんな感じの男の子……なんだけど」


 そういえば名前がわからない。もっと言えば、クラスどころか学年もわからない。何でそんな初対面の人にケチつけられなければならないんだろう。


『人間の顔なんて、みんな同じにしか見えないから、よくわかんない』

「う~ん、そういえばお昼寝してたみたいだよ? それで、私の歌で起こされたって……」

『この時間にここでお昼寝してるのは、ご主人くらいだと思うけど』


 相変わらず表情は読めないけど、もしヒメさんが人間だったら、きっと眉間にしわを寄せながら考え込んでいるに違いない。


「ご主人って?」


 ヒメさんは野良猫だと、前に本人(?)から聞いたことがある。もしかして、今は誰かに飼われているのかな。


『ヒメの友達がね、大好きな人のことをご主人って呼んでるの。だからヒメもご主人のこと大好きだから、ご主人って呼ぶことにしたんだ~』


 ヒメさんは何だか自慢げに、そのご主人について話し始める。


『ご主人はね、いっつもここでお昼寝してるの。最初はヒメの寝る場所取る悪い奴だって思ったんだけど、ご主人は起きると必ずおいしいもの出してくれて、優しく撫でてくれて。ご主人の手、お日様みたいにポカポカしてて、すごく気持ちいいんだよ? 最近は一緒にお昼寝したりするんだ~♪』


 話を聞く限りでは、飼われてると言う程ではないらしい。


「ヒメさんは、そのご主人さんの事が大好きなんですね?」

『うん♪』


 ヒメさんがここまで言うような人なら、さっきの人とは別人だろう。少なくとも、そんなに他人に優しく接するようなタイプには見えなかった。


『う~ん。今日はご主人居ないみたいだから、もう帰るね?』

「うん。またね、ヒメさん」


 私が手を振ると、ヒメさんはどこへともなく帰っていった。


 昼休みの終了を告げる予鈴が響く。私はヒメさんの姿が見えなくなったのを確認してから、屋上を後にした。




 翌朝。どうにも昨日の男の子のことが気に掛かり、ほとんどに生徒が登校したであろう頃合を見計らって、私は一年生の各教室を回ってみた。昨日家に帰ってから気が付いたのだが、あの男の子は一年生の指定色である赤のラインの入った上履きを履いていたのだ。


 とまぁ、相手が一年生であることまではわかったのだが、人を探すにはどうにも情報が不足しているため、自ら足を運ぶに至った訳である。


 一年生のクラスは全部で七つ。私が七組で、同じクラスの中には居ないから、六組から順に教室を訪ねてみた。どの教室も八割ほど席が埋まっていたが、四組まで見終わった時点で、まだ彼を見つけることができずにいる。


「まだ登校してきてないのかな?」


 そんなことを思いつつ、三組へとやって来た。何だか異様に人が多い。どうやら他のクラスの人も混じっているようだ。さすがに人数が多いので、誰か手近な人に尋ねることにする。


「あの、すいません」


 とりあえず、入り口に一番近い所に居た男子に話しかけた。その人がこちらを向いた瞬間、一瞬目の色が変わったのがわかる。どうやらこの人は、私をアイドルとしてみている一人のようだ。


「な、なぁに?」


 私に話しかけられたのがそんなに嬉しいのか、声が上ずっている。しかし、私にとってはどうでもいいことだ。構わずに先を進めることにした。


「このクラスに、顔の彫が深くて一見美形だけど、始終締まりのない顔してる人居ますか?」

「はい?」


 自分でも言っていることが無茶苦茶なのはわかっているが、案の定、相手は混乱している。


「えっと、いつも屋上でお昼寝をしている方らしいのですけど……」

「昼寝? 屋上? あ~もしかして、矢吹やぶきのことかな?」


 散々頭を抱えた後、ようやく一名の該当者に行き着いたようだ。


「その、矢吹さんというのは……」

「ああ、あいつだよ。おい、矢吹!」


 彼の視線の先には、机に突っ伏している男子の姿。そのだらけっぷりは、清々しい朝を、ものの見事に台無しにしてくれる。


「ありがとうございました」


 こんな人を探していたのかと思うと頭が痛かったが、とりあえず捜査に協力してくれた男子に頭を下げ、昨日あった男の子、矢吹さんの元へ足を進める。


「矢吹さん?」

「んあ?」


 やる気の無い二つの瞳が、私を映した。一瞬、その瞳の黒に違和感を覚えるが、彼のまばたきで我に返る。


「あの……」

「ああ、昨日の爆音お嬢」

「ば、爆――」


 開口一番何たる言い草。口の悪さは天下一品だ。


「あ、あの。昨日の歌のことなんですけど」


 思わず声を張り上げそうになったが、私は平静を装う。


「ああ、あれは酷かったな」


 ずばり言い切られた。あまりにはっきりと言うので、そんなに酷かったのかと、自分でも不安になってくる。


「お前、赤い月を見たことあるか?」


 やる気の無い表情から一転して、とても真剣な眼差しが、私を捉える。思わずその瞳の深さに飲み込まれそうになる。


「赤い……月?」


 見たことはある。どこか高い建物の屋上と思しき場所で見上げた、満天の星空と真っ赤な満月。赤い光に支配された、不思議な光景。でもそれは、あくまで夢の中の出来事だ。確か動物と話せるようになった頃から定期的に見る夢。それをどうして彼が知っているのだろう。


「いや、ないならいいんだ。変なこと聞いて悪かった」


 意味深な台詞だけ残して、矢吹さんは再び机に突っ伏してしまう。赤い月。その一言が妙に気に掛かる。どういうことなのか聞き出したいところだけど、次の瞬間には寝息が聞こえ始めたので諦めざるを得なかった。ていうか、あの短時間でよく眠りにつけるものだ。こっちはなかなか寝付けなくて困っているのに。


 とにもかくにも、もうすぐ一時限目の授業が始まってしまう。私は、仕方なく自分の教室に戻ることにした。




 目を開くと、そこは学校の屋上だった。ただ、いつもと違うのはそれが夜だということ。何で自分はこんなところにいるのだろう。考えてみてもぜんぜん思い出せない。ふと見上げると、そこにはさも当然のように赤い月が昇っている。怪しげな光で世界を照らし出すそれは、なぜだか私の心にすっと染み渡るような感じがした。


「ようこそ、我が夢の世界へ」


 どこからともなく聞こえてくる声。空間全体に響き渡るようなその声に、懐かしさにも似た不思議な感覚だ。


「どこ?」


 辺りを見渡し、声の主を探す。


「つまらない常識に囚われていたら、見えるものも見えない」

「どういうこと?」

「言っただろう。ここは夢の世界。赤い月に見守られし、魔法の空間」

「魔法?」

「そう。ここでは誰もが魔法使いだ。そしてその魔法は、あの赤い月を通して現実のものとなる。君にも覚えがあるだろ?」


 うっすらと見え始める人影。徐々に声の出所がその一箇所に固定されていく。


「ここに人を招待するのは、君が始めてだ。もっとも、君は以前ここに迷い込んだことがあるだろうけどね?」


 その人を、私は見た事がある。でも、なぜか名前が出てこない。


「そうだろう? 眠れる月の歌姫、藍澤美咲」


 夜の世界にありながら、太陽を思わせる金色の髪。そして母なる海を宿す蒼い瞳。胸元を大きく肌蹴させたシャツとストレートタイプのズボン。黒一色で統一された服装は色白の彼によく馴染み、夜風になびくそれは、どこか絵本に出てくる魔法使いのローブを連想させる。


「あなたは、魔法使い?」

ていに言えば、ね」


 彼はそっと微笑んだ。赤い月の光に照らし出される彼はとても神秘的で、思わずその姿に目を奪われる。


「さっき私を招待したって言いましたよね。何故ですか?」

「君の心の叫びが聞こえたから、と言えばわかりやすいかな?」

「心の、叫び?」

「そう。なのに、君自身がそれを心の奥底に押し込めてしまっている」


 何だか胸が痛い。私は思わず蹲った。


「君は、ありのままの自分をさらけ出したいのに、回りの人間がそれを許さない。大財閥のお嬢様、お淑やかな学園のアイドル、エンジェルボイスを持つ月の歌姫と言った風にね」


 彼は私の方に手を伸ばし、そっと頬に触れる。その時初めて気が付いた。頬に残る濡れた感触。私は泣いていたのだ。そして、彼はそれをそっと拭ってくれたのだと。


「何とかしてやりたいのは山々だけど、俺にはその状況をどうにか出来る程の力はないんだ。俺は出来損ないの魔法使いだから」

「そんな……」

「俺が君に与えてあげられるのは、きっかけだけ」


 そう言って、彼は右手を握る。すると、拳の中に微かな光が生まれ、そして消えた。


「とりあえず、これでも食べて元気を出すといい」


 彼はおもむろに私の手を取り、その上に何やらフワフワした物を乗せる。


「これ、お饅頭?」


 どこから出したのか、私の手の上にはお饅頭が一つ。


「甘味は人を元気にする。まぁ、食べ過ぎは体に悪いけど……」

「あの、きっかけって?」

「さて、そろそろ起きないと、学校に遅刻する」

「えっ?」


 世界がホワイトアウトしていく。


「ちょっと待って、まだ訊きたいことが!」

「……良い朝を」


 彼の微笑を最後に、世界は白に染まった。




 目を開くと、そこは私の部屋だった。冷たく張り詰めた空気の感触と、窓から差し込む柔らかい光が、朝の訪れを感じさせる。時計の針は、私のいつもの起床時間である七時を指していた。


「……夢か」


 変な夢。赤い月が出てくる夢は何度か見たことがあるけど、人が出てきたのは初めてのことだ。それにきっかけをくれるって言ったのに、実際にくれたのはお饅頭。顔はうろ覚えだけど、変な人だったな。そういえば、髪や瞳の色は違うけど、夢の中の人は矢吹さんにそっくりな気がする。どうして気付かなかったんだろう。


 そこでふと気が付いた。


「そんな。あれは夢の筈なのに、どうして……」


 私の右手の中にあるふわふわした感触。夢の中で貰った、あのお饅頭だ。


「魔法……」


 おっと、呆けてる場合じゃない。早く準備しないと。せっかく早起きしても遅刻してしまっては意味がない。


「良い朝を……か」


 彼の言葉を反芻してから、私は猫柄のパジャマを脱ぎ捨てた。




 私は再び三組を訪れる。今朝の夢の真相を聞きに行くためだ。


 案の定、彼は机に突っ伏したまま身動き一つしない。


「またお前か、爆裂音源娘。ストーカーか?」


 最早彼の悪態にも動じない。これが彼流の挨拶なのだ。私はそう思うことにした。


 一瞬の間を置いて、私は気がついた。突っ伏している彼にこちらが見えているとは考えにくい。彼はどうして、近付いて来たのが私だとわかったのだろう。


「これに見覚えは?」


 ハンカチに包んで持ってきたお饅頭を、彼の前で広げる。ようやく顔を上げた彼は、興味なさそうに視線をよこした。


「この饅頭がどうかしたか?」


 しらばっくれているのか、本当に知らないのか。彼の表情は全くその真意を語らない。私は意を決して、もう少し深く切り込んでみることにした。


「朝起きた時、手に握られていたんです」

「寝る前にそんなもん食ってたら太るぞ?」

「うちは和菓子を食べる習慣はありません」

「そんなこと知るか」

「だから、貴方がくれたんです。昨日の夜に」

「わざわざお前の家に侵入してか? それも真夜中に? お前は俺を犯罪者にでもするつもりか?」

「家に侵入する必要はありませんよ。貴方がこれをくれたのは、夢の中なんですから」


 私が言い終えるのと同時に、彼は大声で笑い始める。ひとしきり笑った後に、彼はスッと真顔に戻り、静かに言い放った。


「夢の中? 何馬鹿なこと言ってんだ? 寝言は寝て言え」


 時間にしてほんの一瞬。だけど、私にとってはその一瞬が、一時間にも二時間にも感じられた。


 私の意気込みは、いともたやすく打ち砕かれる。それも彼のたった一言でだ。さっきまで寝ていた人とは思えない。ぐうたらで口が悪いだけだと思っていたが、とんだ思い違いだ。格が違う。彼と私とでは、天と地ほどの差がある。何が彼に、これほどの気迫を持たせるのだろう。


「あ……あの」


 それ以上言葉が続かなかった。彼はただ私を見据えているだけ。決して睨まれている訳ではないのに、どういう訳か息が詰まる。


「そろそろ教室の戻った方がいい。遅刻になるぞ」


 彼は頬杖をついて、私から視線を外した。すると一気に息苦しさはなくなり、徐々に冷静さが戻ってくる。


 私は時計を確認した。若干の余裕はあるが、そろそろ戻らないと授業に遅刻してしまう。


「あ、あの、変なこと言ってごめんなさい」


 私はお饅頭をハンカチで包み直し、三組を後にした。




 昼休み。私は屋上に来ていた。何とも頼りない錆かけの梯子を上り、給水タンクのある踊り場の縁に腰掛けた。


「何言ってるんだろう、私」


 足を投げ出して、ブラブラさせる。夢の中でお饅頭をくれたなんて、どうかしてる。きっと、矢吹さんに変な奴だと思われた。


「私、どうしてこんなに落ち込んでるんだろう?」


 こんなに気分が沈んだのは久しぶりだ。歌姫のことに諦めがついてからは、こんな風に落ち込むこともなかった。夢の中のたった一言にこんなに振り回されるなんて、馬鹿みたいだ。矢吹さんにまで迷惑をかけてしまった。


「……このお饅頭、どうしよう」


 夢の中で貰ったとしか思えないお饅頭。でも、彼は知らないと言った。そんなはずないと思いつつも、やっぱり魔法なんてありえないと思っている自分がいる。


「このまま捨てちゃうのは……勿体ないよね?」


 それが言い訳だっていうのは、自分でもわかった。夢の中の彼はきっかけをくれると言ったのだ。今まで気づかない振りをしてきたが、もう止まらない。救ってほしい。この状況を何とかしてほしい。歌う喜びを、歌う楽しさを、もう一度取り戻したい。だって私は。


 私は思い切ってお饅頭を頬張った。


「あ……」


 そのお饅頭は、甘くて、やわらかくて、ちょっぴりしょっぱくて、切なくて、でも何より優しい味がした。


「うっ」


 目の奥が熱くなるのを感じる。


「うぁあ」


 涙が頬を伝うのがわかった。


「うぁぁああああ!」


 一口食べるごとに、今まで心の奥底に閉じ込めていた色んな想いものが、一つ一つ溢れ出て来る。私は誰が見ているかもわからないのに、大声で泣きながら、そのお饅頭を食べ続けた。


 食べ終わってから、しばらくして涙も引いた。こんなに大泣きしたのはいつ以来だろう。妙に清々しい気分だった。そりゃもう、鼻歌まで出て来る程だ。


「ル……ルル……ララララ」


 歌いだしたら止まらなかった。次々とうたが生まれ、律動リズムを刻んでいく。私は立ち上がって、心の底から湧き出す旋律メロディーに身を任せた。何もかもが遠くに感じる。抑圧も、しがらみも、今の私には何の影響も与えることは出来ない。この瞬間、私はどこまでも自由だった。


「……ふぅ」


 久しぶりの心地好い疲れ。楽しい歌は時間を忘れさせる。どのくらい歌っていたのだろう。あたりはシーンとしていて、物音一つしない。


「もう授業始まっちゃったのかな?」


 だとしたら、サボりなんて初めてだ。今まで一度だって、そんなことしようとも思わなかった。私は何となく、空を見上げた。


「えっ!?」


 そこに赤い月があった。真昼の空に爽然と輝くそれは、とても優しくて、何だか、私に微笑みかけているようだった。


 ふと背後に人に気配を感じ振り返ったが、そこには誰もいない。


「あれ?」


 もう一度空に視線を戻したが、そこに赤い月は無く、ただ太陽がきらきらと輝いているだけだった。丁度良いタイミングで予鈴が鳴る。私は何だかおかしくて、思い切り笑った。これからは何でも思い切りやろう。そう心に誓う。そして、どこまでも続く大空に向かって叫んだ。


「魔法使いさん!」


 こんな私を救ってくれた『おかしな魔法使い』さんに、精一杯のありがとうを込めて。


「私は……歌が大好きです!!!」


 この時、すぐそばで誰かが笑った気がしたのは、他の人には内緒です。だって、私を救ってくれたその人は、人に正体を明かしてはいけない善い魔法使いなんだから。


「さぁ、教室に戻りましょう。授業始まっちゃいますよ?」


 振り返って、給水タンクに寄りかかるように座っている彼に、手を差し伸べる。相変わらずかったるそうな顔をしたその人は、仏頂面のままながら、私の手を握り返してくれた。


「これからも、どうぞよろしくお願いします。矢吹さん♪」

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