月磨きと精霊(ファンタジー)

 目が覚めると、雨が降っていた。ぽつぽつかんかん、窓に当たる音が心地いいな。ってのんびりしている場合じゃない! まずい寝すぎた仕事に遅れる!


 ベッドから飛び上がったボクは、掛けてあった服とポシェットを引っ掴んで着替えて、急いで石畳の道をかけっていく。今まで遅刻したことなかったのに。しかも雨の日だなんて最悪だ、どこまで月が登っているのか見えないんだもん。


 住宅街を抜けて夜の市までやってくると、ボクは夜空の束を取り出して明かり屋のおばちゃんに渡した。


「おばちゃん! 太陽一瓶! 早くね!」


「おやおや、お寝坊かい月磨き。珍しいこともあるもんだねぇ」


 おばちゃんが重い腰を上げて、太陽の光を大釜からお玉で掬って瓶に詰める動きはとってもゆっくりで、お年寄りだから仕方がないんだけど焦れったい。ああもう、早くしてよと急かしたい気持ちでいっぱいだ。でも言ったってどうしようもないから、地団駄を踏むだけにする。


「気をつけていくんだよ」


「わかってる!」


 手渡されたあつあつの瓶をポシェットに押し込んで、市場から仕事場までまっすぐまっすぐ走っていく。道はびちゃびちゃで足がもつれるし、跳ね返った泥水が冷たいけど、今は気にしている場合じゃない。とにかく急がなくちゃ。


「あっ、そうだ」


 噴水広場の銅像前で、急ブレーキ。危ない危ない、神様にお祈りするのを忘れるところだった。


「パネス様パネス様。今宵も我らを護りたまえ」


 両手を合わせて早口でお祈りしたら、ラストスパートだ。息を大きく吸って、直線を走っていく。


「おやっさんごめん! 寝坊した!」


「遅え! ったく、月磨きの自覚が足りねぇぞ坊主! もう梯子じゃ間に合わねぇ、ゴンドラ使っていけ!」


 頭にげんこつをもらってしこたま怒られた後、洗剤の入ったバケツとブラシをゴンドラに乗せて、降りしきる雨の中を瓶に入った太陽の光だけを頼りに進んでいく。いつもは梯子しか使っちゃいけないから、ゴンドラはレバーを操作するだけで勝手に上がってくれて楽ちんだ。毎日使えればいいのに。


 分厚い鉛色の雲を越えて雲海に出ると、誰もいない真っ暗な星空に小さな星と満月が鈍く光っている。今日は時間も経っちゃったから、かなり汚れが目立っている。雨でよかった、こんなの皆に見られたら恥ずかしい。


「よいしょっ、と」


 ブラシに洗剤をつけて、月の表面を力いっぱいごしごし磨いて綺麗にする。これがボクの仕事、お父さんもおじいちゃんも、さらにそのおじいちゃんもやっていた名誉ある月磨きの仕事だ。


 今夜は満月だから磨くところが多くて大変だけど、新月の夜はお休みだし、三日月の夜は磨くところが少なくて仕事も早く終る。星が煌く日は夜空を切り取れば交換材料になるし、裕福ってわけじゃないけど生活は楽しい。


 どうにか月が空の真上まで上がり切る前に表も裏も磨き終わって、ここから沈むまでは自由時間。前から読んでいた絵本の続きを読むことにした。絵本は不思議だ、読んでいるだけなのにどこへでも連れて行ってくれる。


「やあ、今夜も月が綺麗だね」


 不意に声をかけられて、絵本から目を離すと箒もなしに空に浮かんでいる人がいた。月の光を浴びて輝く姿が神秘的だ。どんな魔法を使っているんだろう。


「えっと、あなたは?」


 知らない人と口を利いちゃいけないって、おやっさんに口酸っぱく言われていたことも忘れて思わず聞いてしまった。人じゃなくて魔物かもしれないけれど、とても害があるようには見えなかったから。声をかけてからしまったと思って手で口元を覆った。


「僕かい? 生まれくる命を導くものさ。君たちの言葉だと、精霊と言った方がいいかな」


「精霊様!? そんな偉いひとが、こんなところで何してるの?」


 話でしか聞いたことがないから、本物は初めて見る。まるっきり人間と同じ姿をしているからとっても驚いた。もっとおどろどろどしい怖い見た目で、角や牙が生えて鱗や羽があるものだと思ってた。


「美しいものを見に来たんだ。この世界を離れてしまう前に」


 どこか寂しそうな声で、精霊様は月をそっと撫でる。どうしてだろう、胸が苦しくなる。


「精霊様、どこかに行っちゃうの?」


「神と喧嘩してね、まったくあいつが聞く耳を持たないから、嫌になってしまったんだ」


「神様って、パネス様? 神様も喧嘩するんだ?」


「そうとも。パネスも我々精霊も、人間と本質的なところは殆ど変わらないんだよ」


 かなり昔に、おじいちゃんが言っていた気がする。人間は神様を模して作られたとかなんとかっていう話。精霊様もボクたちに似たような姿だし、本当なのかもしれない。この世界のこと、もっと知りたいな。


「へぇ、そうなんだ。なんで喧嘩しちゃったの?」


 初めてで知らないことばかりだから、思ったことが全部口から出てしまう。でも精霊様は機嫌を損ねずに答えてくれる。


「あいつが何を間違ったか異世界の人間に雷を落としてしまってね、神は全知全能。失敗など許されないから、こっちの世界へ転生させるって言って聞かなくて。僕としては、いかなる理由があれど異なる世界の魂を持ち込むなんて到底許せない。それで話は平行線、僕が折れたってわけさ」


 精霊様はため息をついて肩をすくめた。不本意なんだろうなって、表情から伝わってくる。


「じゃあ、その、いせかい? のたましーはてんせーしちゃうの?」


 ボクは賢くはないから、わからない言葉だらけだ。やっぱり精霊様の話ってむずかしいな。物知りな図書館のじっちゃんならなんでも知っているかもしれないけれど。てんせーっていうのは、いいことじゃなさそうだ。


「……ああ。パネスが決めてしまったからね、こればかりは誰も覆せない」


 精霊様は泣きそうなくらい悲しい顔で月を見ている。友達とちょっとしたことで喧嘩になったときのボクみたいだった。


「でも、出ていくことはないんじゃない」


 せっかくこの世界にいるのだから、仲直りして平和に暮らせないのかなと思って言ってみた。


「どうかな。世界が出来てからの付き合いだけど、ここまで意地を張った大喧嘩は初めてだからね。仲直りは難しそうだ。少なくとも、あいつが反省するまでは帰ってこないつもりだよ」


 精霊様の意志は固くてどうにもならなそうだ。歯がゆい気持ちで胸のあたりがぐじゅぐじゅする。


「精霊様がいなくなると、世界はどうなっちゃうの?」


「うーん、弊害は沢山あるだろうね。例えば、君は月を磨かなくてもよくなると思うよ」


「えーっ、この仕事気に入ってるのに」


 仕事がなくなったら、どうやって生きていけばいいんだろう。考えたこともなかった。


「君は、この世界が好きかい?」


「もちろん! 皆大好きだよ」


「……そうか。最後に心清らかな人間に出会えてよかったよ」


 精霊様は月から離れて、もっと高いところへ飛んでいってしまいそうになった。


「あ、待って」


 咄嗟に手が出て、引き止めてしまった。ここままじゃ可哀想だと思ったから。悲しいままのお別れは辛いって、痛いほど知っているから。


「これ、精霊様にあげるよ。ボクの宝物だけど、精霊様にあげる」


 ポシェットの一番奥から、古びた蔦で縛った夜空を一束取り出した。解いて広げると、両手が塞がるくらい大きな星空が動き出す。


「これは……流星群かい? 満天の星々が煌めいて、なんて美しいんだ」


 ようやく精霊様は笑ってくれた。


「うん、ボクが生まれた年のアステリア流星群。お父さんからもらったんだ」


「そんなに大切なものをなぜ私に?」


「だって、ここから離れたら夜空が無いかもしれないでしょ? これを持っていれば、いつでも星が一緒にいてくれるもん」


「ありがとう。では僕からは君に名を与えよう。僕がこの世界にいたということを、どうか忘れないでおくれ」


 目の前がぱっと明るくなって、精霊様は消えていた。今日は不思議な夜だった。ゴンドラを降りて、空で精霊様に会ったっておやっさんに言っても、ちっとも信じてくれなかった。


 家に帰ってベッドに入ったけど、全然眠れなかった。本当に精霊様はいなくなっちゃうのかな。あったかいご飯を食べて、真剣に向き合って話したら、分かり合えると思うんだけどな……。



 目が覚めると、雨が降っていた。ボクは飛び起きて宿屋まで走っていく。仕事の時間だ。


「おはようおかみさん!」


「あら、おはようレグルス。今日も雨で嫌んなっちゃうねぇ。いつも通り掃除を頼んだよ」


「はーい!」


 箒とちりとりを持って、廊下を走る。部屋を一つ一つ回って、掃除にゴミ捨てにベッド直しに窓拭きまで。朝から晩まで繰り返すのが掃除人のジョブだ。一日中働いても銅貨三枚にしかならないから貧乏だし、経験値も大したことなくてレベルもちーっとも上がらない。早くお金持ちになりたいな。


 夜になってようやく雲の切れ間から見えた月は、なんだか周りがぼやけてよく見えない。それがどうしてか悲しくて、ぽろぽろ涙が溢れて止まらなくなった。


 まるで、誰か大事な人がいなくなってしまったかのように、ボクはいつまでも泣いていた。

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