7:銀の首輪

 分厚いカーテンで窓を覆った部屋は、太陽の光が差さない。

 部屋の扉が控えめに叩かれる音で目を覚ます。

 甘い匂いが扉越しに漂ってきて、ラディがそこにいるのだとすぐにわかる。


「入っておいで、俺の美しい花ラディ


 おずおずと扉を開いた彼女が、ゆっくりと姿を現わす。

 寝ぼけてぼうっとしていた俺は、彼女の髪を撫でるために首元へ手を伸ばした――その瞬間、肉の焦げる嫌な音と匂いがして慌てて手を離す。


「え」


 彼女が首に付けている銀の首輪チョーカーに指を触れてしまったのだとすぐにわかった。痛みに顔を顰めた俺の目の前で、ラディは驚いて目を見開いたまま固まっている。慌てて無事な方の手を彼女の背に回し、抱き寄せる。

 銀に触れて出来た傷は治りが遅い。なにより今は太陽が出ている時間だ。どう誤魔化すべきだろう。無言のままハラハラと目から大粒の涙を流す彼女に、考えもまとまらぬまま「大丈夫だよ」と声をかける。


「俺は肌が弱くてね。銀が苦手なんだ。驚かせてしまってすまない」


 ここで吸血鬼ヒトでは無いと言ってしまっても良いのかも知れない。帰る家も無い彼女は、多分逃げられないのだから。

 しかし、それが出来なくて咄嗟に嘘を吐いた。

 彼女の涙をそっと指で拭って体を離す。焼けた手を背に隠しながら、俺はラディの髪に触れて柔らかく微笑む。


「ああ、だから聖銀の御守を取るようにおっしゃったのですね……すみません」


「いや、いいんだ。ラディにとって大切なものなのだろう? 無理をする必要はない。それで、何か用があったのだろう? 聞かせておくれ」


 慌てたラディが喉元に付いている銀の首輪チョーカーを撫でた。困ったような、泣きそうな顔をしている彼女に外さなくても良いと伝えて、話を逸らす。

 俺の肌が焼けるくらいどうでも良い。俺が命令をしてソレを外させたのでは意味が無い。

 無理に枷を解いたとして、彼女の力で俺やしもべを傷つけたら、彼女は俺では無く自分を責めるとわかりきっているのだから。


「あの……そうです。お食事を作ったので……御主人様を呼びに参りました」


「下女の真似事などしなくとも良いといっただろう? それに」


 俺にヒトの食事は必要ないと言いかけて、思いとどまる。

 そうではなく、それよりも聞き捨てならないことが一つあった。

 銀の首飾りを避けて、ラディの頬にそっと触れてあかがね色の綺麗な髪をかき上げる。


「俺のことは、アインと呼んでくれと頼んだだろう?」


「すみません、ごしゅじ……いえ、あ、アイン」


「よろしい。それじゃあ、ラディ、一緒に行こうか」


 起き上がって、立ち上がる。火傷のない方の手で彼女の手を取って俺たちは広間へと下りた。

 彼女がしもべたちの止める中、半ば無理矢理作ったらしい朝食が食卓の上に並べられている。

 昨日の残りのスープに、茹でた雌鶏の卵、薄く切り分けられ白パン……そしてゴブレットに注がれた葡萄酒。……葡萄酒以外はどれも食べられそうに無いが、隣に立っているラディが心配そうに俺の表情を伺っているのがわかる。

 覚悟を決めて、俺は食卓の前に据えられた椅子に腰を下ろす。彼女にも、俺の向かい側にある椅子に座るように促しながら、表情が引きつらないように努める。


「食事にしようか、ラディ」


 普段は無表情のしもべたちが、驚いた表情を浮かべてギョッとしたのを感じながら、俺は彼女を食事に誘った。

 スプーンを手に取る。食事が必要ないと喚く俺に「ニンゲンの中に溶け込むためには必要なことだ」と叱られながら、ザハラに食器の使い方を教わったのを思い返す。

 面倒だが、確かに貴族の真似事をしてあいつらに気に入られるきっかけになったりしたなと、くだらないことを思い出しながら、対面に座ったラディへ目を向けた。そして、彼女がなにやら緊張した面持ちで食器を見つめていることに気が付く。

 一口だけスープに口を付ける。彼女がこちらを見ていないことを確かめてからゴブレットに手を伸ばし、口内に広がった死んだ生き物の匂いを流すために葡萄酒で口を漱ぐ。

 深呼吸をして、声がうわずらないように気をつけてから、俺はラディに声をかける。そういえば、しもべの目を借りて覗いた昨日の食事でも彼女は手づかみでものを食べ、器からスープを啜っていたと思い出す。


「大丈夫、叱りはしない。使う機会が無ければそうなるのも当然だ」


 彼女は碌な食事をしている様子がなかった。トレンチャーブレッド皿代わりの硬いパンくらいしか与えられていないのだろうという予想はしていたが……。

 申し訳なさそうに縮こまるラディに微笑んで、俺は立ち上がる。これで食事を中断しても不自然では無いだろう。

 彼女の隣へ向かってカラトリーを持ち上げた。森大鹿アクリスの角を削って作った鮮やかな珊瑚色のスプーンを指で摘まむ。

 少しだけむず痒い気持ちになりながら、かつてザハラから教わったことを、ラディに伝えた。


 ラディとの日々は、腹の中に入ってしまった血以外のものを吐き出してしばらく苦しむこと以外は順調に進んでいた。

 酷い生活のせいで色褪せていたあかがね色の髪は更に艶やかになり、かさついて病人のようだった肌は白磁のように滑らかで美しく、骨と皮しかない細かった体もそれなりに丸みを帯びた。

 青々とした葉が茂り、花々が庭を彩る季節が過ぎて、赤や黄に染まった木々の葉がはらりはらりと地に積もり始めた日のことだった。息苦しさを感じて目を覚ます。

 すっかり夜が長くなり、森で獣や旅人を襲ってから屋敷へ帰っても太陽がまだ眠っていることが多い。

 今日も太陽が地の底で眠っている間に屋敷へ辿り着き、開けっぱなしにしている窓から寝室へ戻った。

 薄暗い部屋を見回してみると、扉の隙間から白い煙が侵入してきている。シャツで口と鼻を覆いながら扉を開くと、ヒイラギの匂いと共に白い煙が屋敷の一階に広がっていた。

 しもべたちは屋敷の中にいる様子は無い。煙が喉に入り込んで咳が止まらなくなる。暖炉に腕を突っ込んで草網の紐で束ねられているヒイラギの枝を掴んだ。酷い痛みに思わず呻き声が口から漏れる。

 煙を逃すついでにこの忌々しい枝を捨ててしまおうと窓を開くと、中庭で雌鶏に餌をあげているラディと女のしもべが目に入る。しまった……と思ったときには遅かった。

 俺と目が合ったラディが、悲壮な表情を浮かべてこちらへ駆け寄ってくる。食卓に敷かれたテーブルクロスをたぐり寄せて焼けた腕を隠す。派手な音を立てて花瓶が落ちたが気にしている場合では無い。


「アイン……、一体どうしたの?」


「その、生焼けの薪が混ざっていたみたいでね。ちょっと咳き込んだだけさ」


 捨て損なったヒイラギの枝を床に落として、窓越しにこちらへ両腕を伸ばしてきた彼女に微笑む。

 ハッとしたように丸い目を大きく見開いて、それからすぐに表情を曇らせるラディを見て今の嘘は失敗したなと気が付く。


「あの……私、昨日ヒイラギの枝を暖炉に焼べたの……。アインたちはあまりしないようだけど……祭司様が、大切な人を悪魔から守るためにはそうした方がいいって言ってたから……この前、お庭で見つけた枝を束ねて……その……」


 ああ、また彼女の表情を曇らせてしまった。

 ヒイラギの枝は、俺にとっては良くないものだと伝えば、追い打ちになってしまうだろうか。

 綺麗に編み込まれた赤い髪が目の前で揺れる。彼女が頭を深々と下げるものだから、それをやめさせようとして窓から身を乗り出して腕を伸ばした。


「ごめんなさい」


「大丈夫、君が俺を大切に思ってくれたことが喜ばしいんだ。だから、顔を上げておくれ」


 そっと頬に触れて、彼女の上気した肌を撫でる。潤んだ琥珀色の瞳で俺を見つめながら、彼女が小さく「本当に?」と呟いた。


「ああ、本当だ。怒ってなんてない。おいで」


 数歩だけ彼女が俺に近寄ってくる。頬から手を離して、彼女の髪にそっと触れた。彼女はもう、体を強ばらせなかった。

 艶のある赤い髪を指で梳いて、少し落ち着きを取り戻した彼女に部屋へ戻っておいでと伝えると、彼女は安心したようにほうっと息を漏らして頷いた。

 厨房や家畜小屋で作業をしていた他のしもべたちは、幸いなことにヒイラギの煙を吸っていなかった。死ぬわけでは無いが、しばらく動けなくなるのでラディに見つかったら面倒だと心配していたのだが、彼女の表情を更に曇らせなくて済んだことに胸をなで下ろす。

 彼女が中庭をグルリと回って、玄関に辿り着くまでの間に、胸ポケットに入れていた手袋を嵌めて火傷を隠した。ちょうど良いタイミングで扉が開けられる。

 駆け寄ってきたラディを抱きしめてから、彼女の手を引いて長椅子の方へと移動した。

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