3:あかがね色の髪
森から流れる小川に沿って南へ進んで、丸太を打ち付けて作った塀に辿り着いた女は、小高い丘を目指して駆けていく。
開けた農耕地が遠くに広がっていて、夕暮れが迫っているからか家畜を引いたニンゲン共が歩いているのが見える。
随分と近くに村が出来ていたものだ。俺が眠る前はここも大きな森だったはずだが。今回はかなり長く寝ていたらしい。
そんなことを考えながら、女が向かった丘に聳える豪奢な石造りの建物へ目を向ける。
これは、
よく見てみれば
ザハラの魂を持つ女が教会へ入って行くのが見えた。中を覗いてやろうと思ったが、教会の前に置かれた篝火ではヒイラギの枝を焼べているらしい。嫌な匂いの煙を風が運んできてげんなりする。
あの建物に近付けなくとも、女の住む村はここに変わりは無い。しばらくは村を見て回って、それから女の家を探せば良い。
そう思い直した俺は、村を一通り見下ろせそうな杉の木に留まった。
「教会、
孤児ですら、あの女よりはまともな暮らしをしているように見える。
まあ、目は絶望か諦めで濁りきっていたが……得てして孤児なんてそんなものだ。珍しくはない。
亜麻色の髪は太陽の神から愛された証、青い瞳は空駆ける天の使者が祝福をした証……だと
俺の生まれた場所では、鳶色の髪こそが美しく、亜麻色の髪は不吉だとされていた。まあ、それ教えてやったらそいつは随分と不満そうにしていたが。
かなり時が過ぎたはずだが、この村でも
それから……
物陰で猫に姿を変えて、村人の近くで聞き耳を立てる。
天気の話、作物の話、獣に家畜がやられた話……とりたてて妙な話はしていないようだが。
「そういや、また森で火事があったんだと」
「
「でも司祭様が言うには聖銀の首輪がある限りあいつは力を使えねえって……」
「悪魔を唆した子供だ。司祭様の言いつけなんて守ってるか怪しいぞ」
気になる声が聞こえた。毛繕いをしながら世間話を交わす農夫の会話に耳を向けた。
「ブデラの薄気味悪い髪はどうにかならんのかね」
「血を吸ったような髪色ってだけでも災難だがね、まさか実の母親の腕に悪魔の力で火を付けるなんてねえ」
血を吸ったような髪色……と聞いて
夕焼けのように美しい彼女の髪を薄気味悪いだって? ヒトにも大地にも流れる血潮の色……獣を遠ざける輝く焔にも似た色ではないか。
憤りを覚えながら、俺はそっとそいつらから離れた。
ザハラの魂を持つ女は、どうやら非常に悪い扱いをされているらしい。薄気味悪いと思われているのなら、攫ってしまっても問題はないだろうか?
そんなことを考えながら教会の扉を眺めていると、ようやく女が姿を現わした。頬が腫れていて痛々しい。右足を引きずりながらのろのろと歩いている女は、何人かの村人とすれ違ったが、彼女を心配する素振りを見せたニンゲンは誰もいない。
骨と皮だけの枯れ枝みたいな彼女が、子供にぶつかられてふらふらと地面に倒れる。
泥まみれになった彼女を見て不快そうな顔を浮かべた子供は何か罵倒をして、どこかへ駆けていった。
彼女が辿り着いたのは村でも指折りで大きなロングハウス……の横にある、扉だけは頑丈に作られた粗末な小屋だった。
女が、細い腕で額の汗を拭っていると、ロングハウスの中からやせぎすの中年女が飛び出すようにやってきた。
「
「かあさま、ごめんなさい……その……教会に……あの……」
ああ、この子は産みの親からも
左手と左脚に大きな火傷痕がある中年女は腕を振りかぶって、謝っている女の頭を殴りつけ、よろめいて倒れた彼女の腹を思い切り蹴り上げた。
中年女がブデラを罵っている横に、亜麻色の髪をした少女がやってきて立ち止まる。赤髪の少女よりも少し年上らしい少女は赤く染められた毛織物のガウンを着て、腰にベルトを締めている。地面に這いつくばっている裸足の彼女と違ってしっかりとした木底のついた革靴を身につけている始末だ。
「ソレ目障りだから、早くしまってくださる? わたくし、聖堂でのお勉強で疲れたからごはんにしたいの」
「ああ、愛しいテリオちゃん、ごめんなさいねぇ」
毛虫でも見るような目付きで、這いつくばったままの彼女を一瞥したテリオは、玄関先に置いてある木桶を蹴り倒してフンと鼻を鳴らした。
木桶に汲んである水が彼女に掛かってもお構いなしといった様子で、さっさと家の中へ入っていく。そんなテリオの背中を媚びたような笑顔で見送ってから中年女はキッと眉をつり上げる。そして、立ち上がれずに地面に目を落とす儚げな少女を睨み付けた。
薄く血色の悪い唇を震わせている少女の腕を掴んだ中年女は、まるで物でも投げるように乱暴な仕草で彼女を押し込むと、扉を勢いよく閉じた。
「神様が禁じてなかったらあんたを殺してやったのに」
閂を掛けながら、吐き捨てるようにそう言って中年女は荒い足取りで家の中へ入っていく。
悪魔の力とは、恐らく魔法のことだ。魔法の才能がある彼女は、幼い頃に魔力を上手く扱えずに母親を傷つけてしまったのだろう。だとしても、それだけの理由でここまで手酷く扱われるとは……。
ヒトの姿であれば、歯ぎしりの一つでもしてしまいそうな苛立ちを感じながら、俺は小屋の影でそっと座り込む。
ああ……
ザハラに会うまでは灰色だったこの世界は、彼女に出会ってから僅かに鮮やかになった。
だから俺は、彼女と最後に交わした約束を頼りにしてここまで生きてきたっていうのに……。初めて会ったときと逆じゃないか……と頭が痛くなる。
ザハラのことを考えている間に、人々の話し声は徐々に静かになり、夜の闇が景色をゆっくりと飲み込んでいく。
彼女の閉じ込められた小屋の前で息をひそめて夜が深まるのを待った。
三日月が空高く昇って頼りない銀の光が僅かに辺りを照らしている。
人目に付かないだろうと確信してから、変化を解いた俺は、闇に向かって語りかける。せっかくの逢瀬に邪魔が入るのはごめんだからな。
「
手首にそっと爪で傷を付けて、地面に吸わせると、彼女たちは頬を僅かに上気させて俺の手首や足元に纏わり付き始める。
「
声が夜の闇に吸い込まれていく。夜の妖精たちが頬や髪を撫でて俺の血で
白目のない漆黒の瞳たちが俺を捉えて、言葉の続きを待つ。吸血鬼の血は、彼女たちにとっては極上の葡萄酒のようなものらしい。
「
ロングハウスを指差してそう唱えると、囁くような笑い声を上夜の妖精達は壁をすり抜けて、家の中へ飛び込んで行く。
これで邪魔者は入らないだろう。
深呼吸をして、扉を控えめに叩いた。祈りの声が止まり、悲鳴を押し殺す息遣いだけが僅かに聞き取れる。
「お前を傷つけに来たわけじゃない。中へ入れてくれないか?」
扉の内側にいるあかがね色の髪をした少女に、そう声をかけた。
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