2:琥珀色の瞳
「腹が減ったな」
誰に言うでも無く声に出して目を開く。
俺を助けて、勝手に死んでいった物好きと別れてから、もうどのくらいの時が過ぎたのかも忘れてしまった。
地下深くに埋められたらしい俺は、飢餓状態でも死ねずに、終わらない孤独が続いても狂うことすら出来なかった。
大地が大きく揺れ、地の底が龍の尾に衝き上げられたように盛り上がり、俺を閉じ込めていた檻がようやく壊れた頃には栄華を極めた砂の都は覚えている者すらいない過去の遺物と化していたのだ。
あのやけに綺麗に輝く鮮やかな女が消えた世界は、色が足りない。
戯れに同族を増やそうとしたこともあるが、結局ザハラの魂を持つ人間は見つからなかった。
「目覚めて最初に飲むなら……やはり女の血がいいな」
そんな独り言を呟きながら体を起こす。
吸血鬼同士の争いに巻き込まれ大暴れをして疲れた俺は、休眠するとだけ伝えて世話をしていた貴族の屋敷の地下で寝転んだ。起こさずにいたことを褒めてやろうと、良い気分で目覚めてみれば、体はあちこち痛いし、住み着いていた家はボロボロに朽ち果てていて散々だ。
適当に唆した貴族にそれなりの部屋を用意させたはいいが、こうなってしまっては見る影もない。
一眠りの間に村が消え去ることは初めてでは無いが……毎回面倒だと溜息の一つは漏れる。
とにかく、
気持ちを切り替えて、鬱蒼とした木々が生い茂る森の中を進んでいく。鳥のさえずりが降ってくる葉の隙間を見上げてみる。僅かに見える空は晴れていて、気分が滅入る。
出来るなら夜に目を覚ましたかったと思ったところで仕方が無い。
森の中へ迷い込む間抜けな
ちょうど良いタイミングだ……。思わず笑みを浮かべながらやわらかく心地よい高さの悲鳴の元へ駆けていく。
藪の中にそっと身を隠しながら、悲鳴をあげたらしい女の方へ目を向けてみれば、頭を低く構えた
視線をずらして、どんなどんくさい女が
「ザハラ……」
その女を目にした瞬間に、俺に無理難題を突きつけてきた女の名前が口を突いて出た。
ザハラの宵闇色の髪とは違う、あかがね色をした波打つ髪。赤銅色の滑らかな肌ではなく、不健康なほど青白いかさついた肌。
彼女とは真逆の華奢で折れてしまいそうな程細い体……骨と皮ばっかりだ。
それでも、
ザハラだったもの。
俺より先に逝ってしまった魂の欠片。
そいつは物乞いのほうがまだ上等な布を身につけてるんじゃないかって位みすぼらしい格好をしているし、森を歩くってのに素足のままだ。
細い首には不釣り合いな銀色の
ヒイラギの枝葉は俺たちや、魔獣にとって忌々しいものの一つだ。
枝を焚いた煙を吸い込めば動きが鈍るし、葉を漬け込んだ聖水は俺たちの肌を焼く。
嫌なものを見た怒りをぶつけるように、
逃げることを諦めて、体を丸めて両腕で頭を覆いながら震える女は、少なくとも魔術師には見えない。
手首を爪で傷つける。昼だとは言っても吸血鬼の血は魔物にとって厄介な存在だ。少しはこちらを見るはず。
「のろまなトカゲ野郎。獲物はこっちだぞ」
思った通り、
ああ、腹が減っていなければこんな雑魚なんて、夜にならなくとも一捻りで殺してやれるのに。
さっと屈んで足元の手頃な大きさの石を拾う。
「そら、逃げるぞ」
腕を振りかぶって投げた石が右目に命中した
驚いて伏せていた顔をあげた女の枯れ枝みたいな腕を掴んで立ち上がらせる。ダメだ。遅い。
低く唸った
仕方なく女を担いで走り出す……が、逃げ切れそうも無い。
「あの……あの……わたし、聖水を……腰のポーチに」
やっとのことで声を出した女の言った通り、腰元を見ると白い山羊角に似たものが雑に
直接触れなければなんてことはないが、それでも聖水が入っていると言われた容器に触れることには多少抵抗がある。
まだ太陽は高い位置に居座っている。腹も減っていて、女を担いでいる上に、俺を追いかけてくる
どうにでもなれという思い半分で女の
角の先端にある切れ目より少し上を強く引っ張ると、蓋が外れた。みすぼらしい女が持つ唯一の財産かもしれない……このまま投げて良いものかと悩んでいる間にも
「悪い」
一言だけそう告げて、俺は
白い煙を出しながら
なにも正体を隠さなくても良いのだが……、あんな化物に追われて怯える女を更に怖がらせるのは気が進まない。これがどうでもいいヒトの子ならば……。
考えたところで仕方が無い。傷痕は幸いにも目立たない腕部分だ。身につけていた服の袖を伸ばして傷を隠してから、抱えていた女を地面へ下ろした。
「ここまで来れば、獣の心配はないだろう」
村がどこにあるかは知らないが、道が慣らしてある。ここから先はニンゲンの領域なのだろう……。
数人の足音と共に、男の声が聞こえる。耳を澄ませてみたが、この女を探している様子はなく非常に呑気な会話を交わしているようだ。
「あ……」
かさついた薄い唇を半開きにした女の瞳に明確な怯えの色が浮かぶ。
逃亡でもしているのか、それとも森に来ていることを他人に知られてはいけないのか……。
「その……ごめんなさい」
それだけ言って、女は背中を丸めて縮こまると踵を返して駆けていく。
見つかると困るなら、少しだけ手助けをしてやろう。
彼女はザハラとは違う。どんな名で、どんなものが好きなのかも、どんな場所に住んでいるのかも知らない。
だが、放っておけないと思った。俺を初めて見て手を差し伸べたザハラも、こんな気持ちだったのだろうか。
息を吸って願いの言葉を囁く。森の精たちが応える音を聴いた。
これで、あの女が村へ戻るまでの間くらいは森にいる男共は外に出てこられないだろう。
彼女の怯えた瞳を思い出して、少し腹立たしくなる。
手酷く扱われている奴隷だって、たかが話し声が聞こえたくらいではあそこまで怯えた顔をしない。
いてもたってもいられなくなった俺は烏に化けて空へ飛び立っていた。
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