ゼシュタルにて 4

「申し訳ございません。わたくしは、アセンブルア公爵へ献上できる有益なものを、なにひとつ宿していないのです。あちらでのわたくしは死んでいるでしょうし、なまじ生きていることが知られたとしたら、ご迷惑をおかけします」

「たしかに、帝国は脅威だな」

「父上、彼女をここへ連れてきたのは俺が――」

「我がアセンブルアは帝国の圧政から逃れてきた者を受け入れ、市井で就労できる環境を整える事業もおこなっている。貴女もそのおひとりだと認識しておりますが、相違ありませんな?」

「……あの、わたくし、は」

「ごめんなさいね、殿方は言い方がまわりくどくていけませんわ」

 公爵とアナスタシアの間に入ったのは、夫人のモルファリータだった。立ち上がり、アナスタシアの傍で腰を落とす。目を合わせ、笑みを浮かべた。

「よくいらしてくださいました。大変だったでしょう? 女の子なのに、こんなに髪が短くなってしまって」

 肩の上で揺れる髪を見やり、哀しそうに瞳を揺らめかせる。夫人のほっそりとした手がアナスタシアの頬へ伸び、触れた。ゼシュタル人らしい、やや硬い表皮。けれど、どこか柔らかい。ザカートの手のひらとは少し違う感触に、アナスタシアは目を見張る。

「夫人の手のひらは、少し柔らかいのですね」

「まあ、エルゼピアの方にそう言っていただけるなんて光栄ね」

「ザカートさまとは、違う感触ですわ」

「あら、ザカートは未婚の令嬢の頬に、こんなふうに触れたのかしら?」

 こちらに飛んできた母のまなざしには多分に揶揄からかいの色が滲んでおり、ザカートはわずかに怯む。しかし、逸らすことなく見つめ返すことで告げる。彼女は、自分にとってそういう相手であるのだと。

 声なき声は、通じたのだろう。

 母の視線はアナスタシアへ戻り、ほっそりとした身体を抱き寄せた。

「アナスタシア。貴女に逢えてとても嬉しいわ。これから大変なことはあるかもしれないけれど、一緒に考えましょう。だから、秘密にしないで話してちょうだいね」

 約束よ。

 語りかけた言葉に、アナスタシアの瞳がゆらめく。晴れた空から落ちる雨粒。

 自分にはずっと見せなかった涙を、母に対してはこうも簡単に許すのか――。

 そのことを悔しく感じつつも、アナスタシアの心がわずかにでも解けたのであればよかったと、安堵が胸に広がった。




 王には話を通しておかなければならんだろう。

 父はそう告げ、ザカートも同意する。

 対外的には、彼女は「帝国から逃れてきた難民」である。事実がどうであれ、それで通すと、アセンブルア家当主がそう宣言したのだ。そこに異を唱える者は、一族にはいない。

 だが、国家としてはそうはいかない。帝国はこちらを罠にかけるつもりで会談に臨み、はじめから和平など結ぶつもりはなかったのだ。心証は悪いし、仇敵たる帝国の姫を害そうとする者が、出てこないともかぎらない。さすがに、若い娘を直接手にかけはしないだろうが、用心は必要だ。王が彼女を認識し、受け入れていることを示しておかなければならない。

 当代の国王は、争いを好まない気質だ。今回の騙し討ちのような会談も、憤りはあるにせよ、それが向けられているのは皇帝であり、アナスタシアには同情的だ。王にも娘がいる。家族を大事にするゼシュタル人の多くは、アナスタシアに心を寄せるだろう。

 とはいえ、国も一枚岩ではない。エルゼピア帝国をよく思わない層もおり、彼らもそれを隠そうとはしていない。

 謁見を終え、そのついでに王宮内を案内してまわっていたザカートらの前に立ちはだかったのが、そういう奴らだった。三人ともザカートと同年代の若者だが、もとから反りが合わない。なにかにつけて張り合ってくるし、面倒に思っている相手だが、彼らも上級貴族。無下にはできないし、やり合っても角が立つ。

 いつも表面上だけで流しているが、今日にかぎっては相手も執拗だった。

「うしろの帝国の客人に、是非ご挨拶をさせていただきたいものです」

「見世物にする気はない」

「とんでもない。我々も心を入れ替えて、帝国の者と親交を深めたいと思っているだけですよ」

「アセンブルア家は帝国人を囲うおつもりですか?」

「それは国家に対する反逆と捉えかねませんよ」

 帝国の民と会話など品位が下がる。普段はそう言って近寄ろうともしないくせに、相手が「わけあり」の女性だと知っているからこそ、絡んでくるのだろう。断るには理由が必要だが、アナスタシアの身分は明かせない。彼女が姫であることを知っているのはごく一部。彼らはその対象ではないのだが、アナスタシアの外見は目を引くのだ。それなりの身分であることは、容易に察せられる。

 どう突破するか。

 考えるザカートの背後から、アナスタシアは姿を現した。

「お初にお目にかかります。わたくしになにか?」

「話のわかるお嬢様で助かります。案内ならば我々がいたしましょう。ザカートは忙しい身でしょうし」

「まあ、でしたらあなたがたはお暇ですの? お仕事はなさっておりませんの?」

「…………」

「ザカートでは勝手のわからぬ場所へも、ご案内さしあげようと思いましてね」

 言葉を止めたひとりに替わって、別の男が笑みを浮かべる。揶揄の混じった声色から、あまりよくない場所だということは知れる。ザカートが反論するより前に、アナスタシアが弾んだ声をあげた。

「まあ、一体どのようなところでしょう。興味深いですわね。わたくし、ゼシュタルのことについて学びたいと思っておりますの。わたくしが知っていることなど、わずかでしかありませんものね」

「本当にお話がわかる方で嬉しいですね。別室でゆっくり楽しみたいところです。時間をかけてたっぷりと、朝まで」

「まあ、それはそういったお誘いですかしら。わたくし知っておりましてよ。ゼシュタルの殿方は、帝国の女性のことを『地中の芋虫』と称するのでしょう? まっしろで柔らかくてぶよぶよしていて気持ちが悪いのだと。たしかにゼシュタルの方々と比較いたしますと、ぶよぶよしていますわよね。言い得て妙だと思いましたわ」

 早口でそこまで言うと、アナスタシアは首をかしげる。

「ご覧のとおり、わたくしも帝国の出ですの。あなたがたのおっしゃるところの芋虫ですわ。そのような身体はお気に召さないのではないかと存じます。それともあなたがたは、そういった特殊性癖の持ち主であるということでしょうか。それは大変ですわね、お察しいたしますわ」

 そう言って右手を頬に当て、憂いてみせる。対する三人はといえば、唖然としたようすで固まっているばかりだ。

 アナスタシアの細い肩に手を置くと、その身体をうしろへ追いやり、彼女を隠すように前に立った。

「おまえたちの言うとおり、俺は忙しい。失礼する」

 最後にひと睨みしてからきびすを返す。そのまま突き進み、角を曲がる。人の立ち入らない廊下の隅で、ようやく足を止めた。

「すまない。あなたをあんなふうに矢面に立てるつもりでは」

「よいのです。あんなものはこれからいくらでもあるでしょう。わたくしがこの国にいるかぎり、覚悟はしておりました。少しばかり早かったですけれど」

「あれは特殊だ。あんな阿呆は滅多にいない」

「大丈夫ですわ。慣れておりますもの」

 皇帝の孫娘といえど、実子らにとってそれは通じない。父親がどんな男であるのか、よく知っているからだ。わかっていて、その事実を呑みこんだ。

 姪ではなく、妹であることを察しているからこそ、親族からは遠巻きにされた。

 アナスタシアは、皇家の汚点だった。

 伯父伯母という名の兄姉たちに優しくされたことは、一度もない。 従兄弟――実際には甥なのだが、息子たちをアナスタシアに近づけないようにするためだろう。くちに出すのも憚られるよくない噂を吹き込んでいたのか、宮城で会うと随分と揶揄われたらしい。

 さっきのような男たちはたくさんいて、嫌悪と好奇の視線を浴びて生きてきた。いまさら、どうってことはないのだと笑うアナスタシアを、ザカートは抱き寄せる。

 温かくて、柔らかい。己とは違う性質をもつ身体。

 彼女は「特殊性癖」などと彼らを煽ったけれど、本当にそう思っているのだろうか。少なくともザカートは、この身体を心地よいと思うし、勿論そういった気持ちにもなる。

 思い出すのは、あのとき。薬を呑んで熱を出した身体を抱えたときだ。

 初めて帝国人にあそこまで近づき、触れた。力の入らない身体はこちらにゆだねられ、一枚の薄布越しにまろやかな肢体を伝える。上気した顔、漏れる吐息が胸にかかり、こんなときだというのにぞくりと粟立った。まるで情事を思わせるさまは、ザカートの欲をじゅうぶんに誘うものだったことを、いまでもしっかり覚えている。

 視線の先には、ほっそりとした首が晒されている。髪が短くなったことであらわになったそこに、唇を寄せる。腕の中の身体がぴくりと震え、耳が赤く染まった。

 ――あいつらのことは、どうこう言えないな。

 顔の下で苦笑する。

 絹糸のような艶やかな髪をかきあげ、指に絡める。赤く染まる頬を冷やすように手を添えたのち、なによりも柔らかな唇に触れる。かすかな吐息すら漏らすことなく閉じ込めて、ザカートはその熱を堪能するため、しばらく時間を費やすことを決めた。



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