ゼシュタルにて 3

 自分を処分するために誰かがやってくるはずだ。

 アナスタシアが言ったとおり、数日後に帝国の鎧を着た男が現れた。

 彼女を殺させるわけにはいかない。迎え撃つザカートの前で、兵士は兜を脱いだ。訝しむザカートの背後から、アナスタシアも顔を出す。

 部屋で鍵をかけて待っていろと言っただろう、でもわたくしは

 などと押し問答をしていると、父親ほどの年齢の男は穏やかな笑みを浮かべて膝をつき、頭を垂れた。

「姫、ご無事でなによりです」

「皮肉は結構です。わかっています。あなたの任を遂行なさい。ですが、この方に手を出すことは許しません。わたくしだけを殺しなさい」

「アナスタシア!」

「よいのです。わたくし、とっても幸せでした」

 声を荒らげるザカートに対し、アナスタシアの声は穏やかだった。

 なにが「よい」のか。ちっともよくはない。幸せだった、などと過去形にさせてなるものか。彼女の人生は、まだこれからだ。

 ザカートから漏れ出る殺気に気づいているだろうに、帝国の兵士は動じた様子もなくアナスタシアをひたと見つめ、次にザカートへその視線を移す。一般的な帝国人らしい灰青の瞳を向けた男は、ゆるりと頬をゆるませた。

「安心いたしました」

「――なにがだ」

「いかに姫さまとて、この森の中、おひとりでゼシュタルへ辿りつくのは難しいと思っておりましたので」

 お逃げください。

 そう言って再度、頭を垂れる。

 アナスタシアは彼に駆け寄り、顔を上げさせた。手を引き、立たせて、眉を下げた顔でザカートを見つめる。さっき見せていた威圧的な態度はどこへやらだ。

 どうやらこの男は、彼女を逃がすために来たらしい。

 ザカートもまた彼を邸へ招き入れ、よくよく話を聞くことになった。


 イヴェールと名乗った男は、アナスタシアを育てた父・ピサロの友人だったという。子をなせないとずっと嘆いていた友がようやく得た子どもについて、薄々はその事情を察していた。皇帝が特定のメイドに執心していたことを、皇家の近衛を務めていたイヴェールは知っていたからだ。

 彼は、男爵家の出だ。身分の差があり、皇族のひとりと友人関係にあることを知っている者は少なかったし、不用意な争いに巻き込まれないようにと、ピサロのほうが関係を秘していた。それが幸いしたといっていいのか。彼は、アナスタシアに関係した者の処分から逃れた。

「……どうして私だけが生きているのか。時々、後悔にさいなまれました。ですが、亡くなった友のかわりに、姫さまを見守っていこうと決めました」

「ちっとも知りませんでした。あなたは、陛下に言われて、わたくしを監視しているのだとばかり……」

「表立ってお声かけすることができず、申し訳なく思います」

「よいのです。お父さまだって、お怒りにはならないはずです」

 アナスタシアが十八歳を迎える折、皇帝の命により、彼女を駒とし、ゼシュタルに対して優位に立とうとする計画が持ち上がる。

 容姿はこれ以上ないほどに整っている姫は、しかして中身に難があるとひそかな噂が立ったせいだ。帝国に反旗を翻そうとしているいくつかの小国に対し、アナスタシアの嫁ぎ先として争わせる計画は頓挫することとなり、ならば魔族に殺させることで民からの同情を買う方向に転換したのだ。

 成人さえすれば、どこかへ嫁ぐ。皇帝から距離を置けると思っていた男は絶望し、その後で決意する。

 アナスタシアを、逃がそう――と。

「姫さまのことです。お相手を殺すようなことはなさらないでしょう。ならば、私が魔族を殺し、姫さまをお逃がししようと、そう決めました」

 相手は皇帝の孫娘。それでなくとも十八歳の美しい姫を手にかける任務に、望んで就きたいと思う者は少ない。

 イヴェールは志願した。

 そして、ここへやってきたのだ。

「卿に託します。どうか、姫さまをよろしくお願いいたします」

「駄目です。だってそうしたらあなたは」

「これでやっと友に会いにいけます。おまえの娘は元気に巣立ったと言ってやれます」

 死を覚悟した男にかける言葉を持たないザカートに対し、アナスタシアは椅子を蹴って立ち上がった。表情には深い葛藤が刻まれ、なにか策はないのかと頭を巡らせているのが見て取れる。激情に耐えかねたか、身を翻して階段を駆け上がっていった。

「あいかわらずお元気そうで、なによりですよ」

「帝国にいるときも、あのような?」

「友人が暮らしていたのは辺境でして、自然豊かな山地でした」

「ああ、フィールドワークがどうとか」

 なるほど、元から野生児だったのかと納得するザカートに、男は笑みを浮かべた。

「姫さまは、よほど卿に気を許していらっしゃるようですね」

「そうでしょうか」

「私は独り身なのですが、こういうときは友に代わって、うちの娘を嫁に欲しくば、などという台詞でも言うべきなのでしょうな」

 託す、とは。単に彼女の身辺を守るだけをさしているのではなく、そういった意味をもっているのだと覚悟を問われた気がしたとき、アナスタシアが駆け戻ってきた。視線を向けたふたりの男は、ぽかんと口を開ける。

「これをお持ちください。この程度で確証などにはなり得ないのでしょうが、少なくとも帝国人にとっては死したも同然でしょう」

 机に投げ出すように置かれたのは、美しい金の髪束。

「それから、こちらも」

 重なるように、複雑な意匠が入った指輪が置かれる。彼女の細い指をずっと飾っていたものだ。

「これでわたくしは、帝国の姫たる尊厳を失いました。なんの価値もない、小娘以下の存在ですわ。そうでしょう?」

 晴れやかな笑みを浮かべて小首をかしげる。

 さらりと肩の上を流れる髪は、ぶっつりと乱雑に引きちぎられたような有様だ。長さが不揃いで、ところどころが斜めになっている。

 結い上げる髪がない者は、罪人。

 それが帝国の常識だ。男でも、結わえる程度の髪を持っている。

 男の場合、闘いにおいて髪を落とすことで勝敗を決定することも多いが、女性となると話は別だ。罪を犯した、あるいは隷属の証。どちらにせよ、ひとりの人間として扱われることはなくなるだろう。

「これだけでは意味がないですわね。服もお持ちください。ズタズタに切り裂いたほうがよろしいかしら。殺し方によって違いますわね。どう偽装するのがよろしいです? 血も、こう、ドバーっと」

 右手に持ったナイフを左腕に突き立てようとする仕草に、ザカートはあわてて彼女から刃物を取り上げる。

「どうしてそう極端なんだ」

「わたくしが死んだことにするのであれば、それなりの確証がいるでしょう。片腕ぐらいであれば、命が消えるまでには至らないかと」

「莫迦を言うな」

「ですが――」

「アナスタシア!」

 怒気を込めた声に、アナスタシアは固まる。ゆるゆると眉が下がり、肩も落ちる。落とした視線に合わせて、短くなった髪が頬を隠した。

「わたくしは、どう償えばよいのですか」

「だからといって、腕を落とすなど」

「そうです姫さま。私を思うというのであれば、どうかお止めください。兵士たちの中で、姫さまの死を望んでいる者など僅かもおりますまい」

 話し合いの末、アナスタシアが持参した荷、身に着けていたものを含めたすべてをイヴェールに渡すことにした。

 姫の死に関して、遺体および首を持ち帰るようには言いつかっていない。そもそも姫は、魔族の手にかかったことになっているのだから、遺体があるほうがむしろまずいのだ。それを逆手にとり、長い髪と皇家の印、持たせた荷物を確証とすることで、アナスタシア・ラ・エルゼピアの死を、イヴェールは持ち帰ることになった。

 ゼシュタルからアナスタシアが着る服を取り寄せ、準備が整い次第、イヴェールは北へ、ザカートとアナスタシアは南へ向かった。



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