ゼシュタルにて 2

 夕刻には、両親がやってくる手筈が整っているため、厨房は騒がしい。なにしろ御当主の来訪だ。大袈裟ではないにしろ、晩餐会である。ザカートも普段よりはしっかりとしたものに着替え、アナスタシアの準備を待つ。

 そもそも女性は支度に時間がかかるものだが、アナスタシアの場合はそれだけではない。

 緑の邸では、肌の手入れもできていないだろう。なにしろ傍仕えもいなければ、設備も十分とはいえない暮らしだった。また、森を出るにあたって、彼女は髪を短くしている。まばらになった毛先も整えなければならない。

 不在中の仕事を書斎で確認していたザカートを、老執事が呼びに来る。アナスタシアの支度が整ったらしい。

 ザカートがホールへ出たのと、彼女が階段を降りてきたのは、ほぼ同時だった。

 背後にある大きな窓が、アナスタシアを背中から照らす。金糸の髪は輝きを放ち、薄絹を重ねた細身のドレスは、彼女の華奢なシルエットを浮き彫りにしている。それはさながら、天の国に住まう女神のようだった。

 見上げたザカートの瞳と、美しい空色の瞳が出合う。ぞくりと総毛だったとき、彼女が笑った。こちらの名を呼び走り寄ろうとし、案の定、身体が傾ぐ。ザカートは俊敏な動きで階段を駆け上がり、アナスタシアのもとへ向かった。

「落ちるかと思いました」

「あまり驚かせないでくれ」

「申し訳ありません」

 手を取り、ゆっくり階下へ向かう。ホールへ降り立つと、アナスタシアはザカートから数歩離れてこちらを見据えた。視線が上から下へ向かい、その逆を辿る。きらきらと瞳が輝き、胸の前で手が握り合わされる。

「とっても素敵ですわ! ゼシュタルの正装はこんなふうなのですね。帝国では重ね着ばかりで皆さま動きにくそうにしているのですが、ザカートさまの先ほどの動きはとても機敏でしたわね。わたくしもこうして女性のドレスをお借りしているのですけれど、やはり動きやすいと感じます」

「気候の違いですね」

「ええ、帝国の中枢は北部にありますので、いかに衣を重ねるかを競う傾向があるのです」

 帝国の商人らが買い付けていく品の中には、反物も多い。厚みがあっても風を通す素材が好まれるのは、そういった理由があるのだろう。

 ザカートが身につけているのは、正装とはいえ簡易的なものだ。式典などに参加する際にはもっと飾りがつくし、布地の質もあがる。家名を貶めるような装いはできない。女性のそれも同じだ。アナスタシアがいま身につけているのも、上質のものではあるが、決して華美ではない。

 にもかかわらず、光輝くような美しさを放ちこちらを圧倒するのだから、たいしたものだ。彼女の美貌を取引の材料としようとしたことにも、納得がいく。

 改めて感心していると、アナスタシアの表情が曇った。

「やはりおかしいですわよね。わたくしも、薄々は感じておりましたの。素敵な御召し物についはしゃいでしまいましたけれど、アセンブルア公にお会いするに相応しい装いとは思えません。帝国のものはすべて処分してしまいましたけれど、やはりなにかひとつぐらいは残しておくべきでしたわ」

 俯くアナスタシア。ザカートの背を、誰かが叩く。ゴホンとわざとらしい咳払いが聞こえた。来客を出迎えるために集まりはじめた使用人からも、無言の圧力を感じる。

 ザカートは己の失態を恥じた。驚くあまり、肝心なことを言っていなかったらしい。

「アナスタシア」

「……はい」

「言葉が足りなくてすまなかった。とてもよく似合っている。常々美しいと思っていたが、息を呑んだ。あなたがゼシュタルのドレスを纏い、こうして立っていることを心から嬉しく思う。本当に、あなたが俺の国にいるのだと実感して、狂おしいほどだ」

 ちいさな悲鳴と、息を呑む音がどこからか聞こえた気がする。

 ――俺はまた間違えたのか。

 ザカートが自問したとき、開け放たれた扉から笑いを含んだ声が響いた。

「これはこれは。これほど情熱的に女性を口説く姿を見せられるとは、思っていなかったな」

「そういうことは、二人きりのときになさい」

 ザカートとアナスタシア以外の者が礼を取り、アセンブルア公爵夫妻を丁重に出迎えた。



 大掛かりな晩餐ではなく、あくまでも親しい者を招いた夕食、といった体裁。それでも、アセンブルア家当主の圧は凄まじく、給仕にも緊張が見られる。ザカートとて例外ではない。

 アナスタシアはどうかと目をやると、凛とした佇まいで笑みを浮かべ、かけられる声にも優雅に対応している。森で過ごしていたときとはちがう穏やかな笑みは、風格と余裕を感じさせるものだが、その内心はどうなのだろう。

 帝国の姫。

 現皇帝の孫娘。

 今の彼女は、その言葉に相応しい近寄りがたいオーラまとっている。

 ザカートは改めて、自分と彼女の立場の差を思い知らされた。アナスタシアは、簡単に手を取っていいような相手ではないのだ。

 大陸の北半分を操ることも可能な駒。そう育てられた存在。そこに、本人の意思は関係がない。己が意のままにするために、皇帝は七歳になったばかりの彼女を城へ封じ込めたのだろう。

 明らかにはできない出生と多くの秘密、重圧を背負い、彼女は魑魅魍魎のような貴族社会で生きてきたのだ。味方もなく、たった独りで。

 その心も含めて、アナスタシアは美しいと思うし、彫像のように作りものめいた笑みを剥がしたいとも思う。よく晴れた青空のような瞳をきらめかせる笑顔のほうが、ザカートは好きなのだ。


 なごやかな夕食を経て、一同は場を変える。テーブルを挟んで両親と対面に座ったところで、まず口を開いたのはアセンブルア家当主たる父・テイルダードだった。

「エルゼピアの君。あらましは聞いているが、あらためて貴女の口から伺わせていただきたい」

「はい。すべてあますところなく」

「とはいえ、ここは公式の場ではない。そう固くならないでくださると、私としても助かります」

「ご配慮くださりありがとうございます」

 軽く一礼したアナスタシアは、テーブルに隠れた膝の上で、拳を握りしめる。いつもよりさらに色が白いそれに、ザカートは己の手を重ねた。包み込んだ拳は固く握りこまれているようだ。

 自分がここにいる。今のあなたは独りではないのだと念じながら、ほんのすこし力をこめると、アナスタシアの拳から力が抜けた。温かく柔らかな肌。宥めるように親指を這わせると、ぴくりと震える。

「まずは私が」

 ザカートが口火をきり、アナスタシアの事情を知った経緯と、そのあとで起こったことを話すことにした。



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