後日談

ゼシュタルにて 1

 馬車から降り、その光景を目の当たりにした彼女は、薄く口を開いて固まっている。

 まばたきを数回。のちにゆっくりと左右に視線を巡らせ、空を仰ぐ。のけぞるように首を反らせていく姿を見て、ザカートはそっと彼女の背中を支えた。

 上向きのままこちらに視線を寄越したアナスタシアは、いつものように瞳を輝かせる。頬は紅潮し、いまにも叫び出しそうな面持ちだ。

「どうですか、ゼシュタルの空は」

「とても、とても美しいです。先生がおっしゃっていたのは本当ですのね。青空とは、こんな色なのですね」

 アナスタシアが暮らしていたのは、大陸の北側、エルゼピア帝国でも最北に位置する都。空は、薄く引き伸ばしたような青色をしているという。彼女の師を務めた魔族の男は、祖国について語るとき、いつも空の色に言及していたそうだ。

 ――わかる気がする。

 ザカートは思う。

 アナスタシアの瞳は、晴れ渡った空を思わせる美しい青い瞳。己の境遇を隠し、偽って生きてきた男はきっと、彼女を見つめるたびに郷愁に駆られたことだろう。

「勿論、空だけではありませんわ。景観も整っていて、本当に綺麗なところですわね」

「蛮族が暮らす地には見えない、と?」

「……もう、意地悪をおっしゃらないでくださいませ。わたくし、そんなことは思っておりません。ほんのすこしだけ驚いたことは事実ですけれど」

 しゅんと眉を下げ、申し訳なさそうな顔をするさまに、つい笑ってしまう。

「悪かった。まあ、ここは都だから整っていて当然だ。地方へ行けば、もっと自然が多い」

 街並みも、民の立場も。地域によってさまざまだ。

 境界の森を出て、都へ向かうまでの間。馬車の窓にはカーテンを引いて、外の景色は見せないようにしていたから、都へ近づくにつれて増えていく建物にも気づかなかったことだろう。驚くのもまあ無理はない。

 帝国は、魔族を下に見ている。未だ、地を這うような暮らしをしていると喧伝しているようだが、そんなことがあるわけもない。あちらで流通している品の中には、ゼシュタル発案のものだってあるのだ。多くの帝国人が知らないだけで、商人らの行き来は行われている。

「行こう。疲れただろう」

「……あの、わたくし」

「俺がいいと言っているし、うちの者はあなたが来るのを心待ちにしている」

「ご迷惑をおかけしませんか?」

「口さがない者はたしかにいるだろう。あなたを傷つけないとは言いきれない。だが――」

「わかっております。こちらへ来ることを選んだのはわたくしですもの。大丈夫ですわ」

 結構、図太いんですのよ。

 こちらを見上げ、笑ってみせる彼女の手を取り、ザカートは己の邸に向かった。



     ◇



 ザカートは、ゼシュタルの中でも三公と呼ばれる一族の出だ。アセンブルア公爵家は、主に国内外の交易に関わる仕事を任されており、帝国の商隊とも親交がある。

 今回の件でザカートが任じられたのは、他の二公が躊躇したのだという話もあるが、アセンブルアが帝国人に対して過度な敵意を抱いていないことが大きかったのだろう。商売人ならともかく、あちらの帝国貴族は魔族を侮蔑している。

 ザカートも構えていたが、現れたアナスタシア姫はとても変わった女性だった。

 面倒な仕事を押しつけられたと思っていたが、いまとなっては感謝している。むしろ、他の男が担わなくてよかったと思うほどだ。

 森の邸を出るにあたり、父には手紙を出した。国家間の仕事だ。黙って投げ出すわけにはいかないし、家名に傷もつく。いままで築いてきた信頼を、自分のおこないですべて失くしてしまうのは避けなくてはならない。

 父親からは、帝国の姫を連れて一度戻ってこい、との返事があった。申し開きをしろ、ということらしい。

 義に厚い人柄だ。アナスタシアの事情を無下に扱うことはないだろうが、立場の問題もある。なにしろ彼女は帝国の姫。存在が知れると危うい。

 そうしてアナスタシアを伴って戻ったのは、ザカート個人の邸である。アセンブルア家が所有する中でも小さなものだが、それでも独り身にはやや大きい。使用人の数も少ないが、揃っているのは幼いころから知っている者ばかり。彼らなら、帝国人に対して失礼を働くこともないはずだ。

 前もって連絡を入れておいたこともあり、アナスタシアのための部屋は用意されていた。案内されたのは、客室のひとつ。たまに訪ねてくる友人が泊まることが多い部屋だが、女性向けに作り替えられていることには、驚きを禁じ得ない。

「とっても素敵ですわ。窓が大きいから部屋が明るいんですのね。やはり風通しをよくするためですの?」

「私たちにとってはこれが普通ですけど、帝国の方はそうお感じになるんですね」

「場所によって違うとは思いますのよ。わたくしが暮らしていたのは帝国でも最北端ですから、寒さが厳しいのです。窓を大きく取りますと、どうしても冷えます。勿論、採光のために大きなガラスを入れて、温室のようにする場合もあるのですけれど、そういうものは総じて値が張りますから」

 アナスタシアは、いつもの調子で語りはじめる。一見すると可憐だが、口を開くといつもああなのだ。

 ザカートは、案内を務めてくれているメイド頭のジラに目をやる。

 彼女はザカートの乳母を務めていた女性で、もうひとりの母ともいえる存在だ。また、上流階級の令嬢たちを相手に基礎教育を施していた教師でもある。我儘なお嬢様の扱いにはある程度慣れているだろうが、果たしてアナスタシアについてはどう感じるだろうか。

 ジラは、一度驚いたように目を見開いたあとで、口元をゆるめた。

「でしたら、こちらの日射しはお嬢様の肌には厳しいかもしれませんね」

「そうなのですね。森を出てここまで、ずっと馬車に乗っておりましたので……」

「本日は外へ出る予定は伺っておりませんが、庭へ出るときは羽織るものをお持ちいたしましょう」

「羽織ものなど、暑くはないのですか?」

「通気性のよい素材を使っておりますので、問題ありませんよ。日射しが肌を刺すほうがよほど熱を持ちます。慣れていないと、きっと赤く腫れてしまわれます。お気をつけくださいませ」

「ごめんなさい、弱々しくて。不甲斐ないわ」

 袖をめくり、日焼けなどない真っ白な細腕を晒したアナスタシアを、ジラは優しくさとす。

「お嬢様の肌はお美しいと思いますよ。ですから、あまり見せないようになさいませ。とくに殿方には」

「そうなのですか? ゼシュタルの方は、そういうことは気にしないのだと思っていたわ」

 ザカートさまはなにもおっしゃらなかったし――と首を傾げるアナスタシアに、ジラが剣呑な目をザカートに移す。

「坊ちゃま、よもや不埒な真似はなさっておりませんよね?」

 乳母の視線に、ザカートは思わず目を逸らした。

 口づけは、不埒ではない、と思いたい。




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