魔族の男と帝国の姫 後編

 交渉が決裂したという知らせは届かないが、その逆もない。

 二ヶ月が経ち、距離を計りかねていた生活にも慣れてきた。

 アナスタシアの部屋は二階の主賓室だ。一番広く、立派な調度品が置かれている。対してザカートは一階の入口近く。従者が使う部屋である。

 来訪者があった場合、すぐに対応ができたほうが都合がいいのだと言って納得させたが、その真意は侵入者対策だ。交渉に不満を持つ勢力が来ないとも限らない。有事の際は相手を殺すことも辞さないと思っていたが、今は少し考えが変わった。

 なにかあったとき、アナスタシアが傷つき、哀しむ姿は見たくない。

 随分とおかしな考えをするようになったものだと、独りごちる。


 細い月が夜空を飾る中、吐息を落としたザカートの耳が、二階の物音を拾った。

 彼女も寝つけないのだろうかと思ったとき、なにかが倒れたような振動が響いたので、階段を上がる。

 二階は主賓室と、物置の小部屋だけ。まずは物置部屋を覗いたが、物が倒れているふうでもない。ではアナスタシアの部屋か。深夜に立ち入るわけにもいかず、扉越しに声をかける。

「物音がしましたが大丈夫ですか?」

 応答はない。

 ないが、やはり気になってザカートは扉に手をかけた。鍵はかかっていない。

 一言注意しておかないとと眉を寄せたザカートだが、床に倒れている姫の姿に蒼然となる。

 声をかけると、視線を彷徨さまよわせてこちらを捉えた。なにかを発しようと唇を開くが、言葉にはならない。

 ふと、彼女が握る小瓶に気づいた。床には液体が広がり、なにかが入っていたことが知れる。

 空になった小瓶を取り上げて、指の先に付いた残液を舌先に乗せたザカートは、顔をしかめた。

 ゼシュタル人が摂取すれば危険だと言われている薬がある。風邪に似た症状を人為的に作り出すことができ、発熱を引き起こすものだ。

 極寒地で体温を上げるために開発された薬だが、低体温の民族にとって急激な変化は死に至る可能性もあり、用量がきつく定められている。帝国の人間が魔族に対し「毒」として使用するものだ。

 それを、アナスタシアが持っていた。

 だが彼女は、それをみずから呷った。

 ――何故だ。

 疑問と焦りと動揺と、さまざまな感情が渦巻き、思考が定まらない。

 悩むザカートの視線の先で、アナスタシアが喘いだ。紅潮し、発熱が起きていることがわかる。

 どうすればいい。

 わからない。

 同族であれば対処法もあるが、彼女は帝国の人間だ。種が違う。

 ――だが、なにもしないわけにはいかない。

 同じだと彼女は言った。

 自分たちは、同じ「ひと」なのだ。


 卿の手はとてもひんやりしていますわ


 そう言って目を丸くした顔と声がよみがえる。

 彼女の額に手を伸ばす。乱れた前髪を掻き分け、あらわになったそこに手のひらをあてた。

 伝わってくるのはひりつくような熱さだが、彼女が感じているものだと思えば、離す気にはなれない。

 力ない身体を起こして腕に抱いた。背中を支えるように添えた箇所からは、寝間着越しでも熱い体温が伝わってくる。

 アナスタシアとの距離がより近くなり、意識すると緊張が走る。思わず身じろぎすると、体勢が変わったか胸元に熱い吐息がかかった。

 すがるように身を寄せた彼女の手が、ザカートのシャツを握る。先ほどよりも顔が赤らみ、苦しげに眉根を寄せ、身体を震わせた。

 寒がっている。

 そう気づいた途端、心が冷えた。己の体温まで下がったような気がする。

 寝台の上に横たえて、上掛けをかぶせた。隙間なく身体を覆うように閉じ込めて、ザカートは脇の椅子へ腰を下ろす。

 ――どうして俺の身体は、こんなに冷たいのだろうな……。

 弱っている彼女に寄り添うことすらできない状況に、唇を噛む。不甲斐ない己が悔しくて、身体が震えた。




 彼女が回復したのは、三日後だ。ザカートが作った味の薄いスープを飲んだあと、改めて事情を問いただす。

 あの薬は、ゼシュタル人にとって猛毒になりうるが、帝国人はそうではない。彼女が所持していた理由はひとつだ。

「なぜ、あんなことをした」

「申し訳――」

「謝罪はいらない。理由を訊いている」

 俯いた顔は青白い。胸が痛んだが、答えを待つ。

 アナスタシアは封書を差し出した。彼女に届いた帝国からの定期便だ。視線を向けると頷きが返り、ザカートは中を改める。


『まだ生き永らえているのであれば、早々に自決せよ』


 記されたサインは、皇帝の自筆。

 アナスタシアは言う。


「わたくしは、皇帝陛下の孫ではありません。娘です」



     ◇



 城に上がったばかりだという美しいメイドに、皇帝が手をつけた。

 何度も欲の捌け口となった娘は身ごもり、皇帝は実子の中でも子を宿せなかった息子夫婦へ、自身らの子として育てることを命じた。

 実母がどうなったのか、アナスタシアは知らない。

 父母を実の親として暮らしていたが、都に参じた七歳の折に引き離された。整った容姿の幼子に、利用価値があると見なしたのだろう。

 両親と離れたまま過ごし、二度と会うことのないまま訃報をきいた。魔族の手に堕ちたと公表されたが、それをやったのは帝国人だとアナスタシアは知っている。

 皇帝は、アナスタシアが実子である事実を知る者を葬ったのだ。


 必要最低限の人数としか接触しないまま生きた。そのなかでもっとも印象的だったのは、歴史教師として招かれた老人だ。

 彼は、魔族だった。


 事情があって祖国を出奔したという。長くこちらに住んでいるせいなのか、その容姿はアナスタシアから見ても帝国人と変わりなかった。事実、城の者も疑っていない。

 やや赤みを帯びた瞳が印象的な老人は、アナスタシアが望むままに語った。

 幼い姫にだけ自身の出生を告げた理由はなんだったのだろう。

 命が尽きる前に意趣返しがしたかったのかもしれないが、アナスタシアにとってそれは、世界が覆るほどの衝撃だった。


 彼らと自分、なにが違うのか。

 瞳、耳、鼻、口。二本の腕と足。

 同じ言語を扱い、対話することもできる。

 髪や目の色が異なるのは、帝国内だって同じこと。大陸の南北で差異が出るのは、自然の摂理だ。



「先生は、他の誰よりも親切だったから、先生と同じ国のひとに、ずっと会ってみたかったのです」

「そうか」

「卿は、先生に似ていらっしゃいます」

「だから、信頼していると?」

 恩師に似ているから懐いていたのかと納得しつつ、どこかおもしろくない。

「事情はわかった。だが、なぜ俺に使わなかった」

「……あなたを、人殺しにはしたくなかったのです」


 課せられた任は、魔族に殺されること。

 魔族の男が、帝国の姫を殺した。

 それを盾に取って交渉で優位に立つ。

 アナスタシアは、そのためにここへ送られた。

 だが帝国の予想に反してまだ生存しているため、二案目の「相手を殺す」指示がくだる。毒薬も、最初から持たされていた。

 しかしアナスタシアは苦悩する。

 どうして彼を殺せるだろう。わざと怒りを買おうとしても受け止めてくれる、優しい人。

 あの方が死ぬのは嫌だ。


「だから、自分で呑んだというのか」

「はじめから、生きて森を出ることは想定されていないのです。おめおめと生きているかぎり、わたくしを殺しに誰かがやってくるでしょう。そうなったとき、きっと卿は相手と戦うことを選んでしまう。あなたを罪人にしたくないのです」

 どうか早くお逃げください。

 死なないで、生きてください。

 アナスタシアの懇願に、ザカートは胸を掻きむしられる思いがした。

 殺されてこいと敵地へ送り込み、生きているならば相手を殺せという。敵の命を奪ったあとは自死を選び、それができぬのなら同族に殺される。

 十八歳になったばかりの娘が背負うには、あまりに重い。

 帝国の人間のほうが、よほど冷酷だ。

「あなたは死にたいのか」

「産みの母も育ててくれた両親も、わたくしのせいで死にました。わたくしだけが生きている、罪そのもののわたくしだけが。この世の誰もがわたくしに死を望んでいるのですから、それ以外に存在する意味がどこにありましょう」

 いつものように微笑んだ彼女の頬に手を伸べ、包みこむ。

「ならば俺が望もう、おまえのせいを。この先ともにある未来を、切に望もう」

 驚きに見張った目じりに指で触れると、ほろりと涙が零れ落ちる。思えば初めて見る泣き顔に、心が震えた。

 こみあげるのは憐憫か同情か。

 否。きっと、それとは違うのだ。

「ゼシュタルの空が見たくはないか?」

「……見たい、です」

「生きていたくはないか?」

「でも、わたくしは……」

「おまえに罪があるというのなら、それを俺が殺そう。帝国の姫はここで死ぬ。おまえはただの、アナスタシアだ」

「卿はどうしてそんなにお優しいのですか」

 こんなにも罪深いわたくしに。

 口を引き結び、感情を押し殺そうとするアナスタシアに、ザカートは言う。

「いいかげん、俺の名を呼べ。アナスタシア」

「な、なにを。卿こそ、なぜ急に」

 いままで、避けてきたこと。

 きっと互いに、深入りを恐れていた。

 だが本当は、ずっとその名を呼んでみたかった。

 皆同じなのだと言ったあなたに触れて、その熱を直接感じたいと、いつしか願うようになっていたのだと想いを告げれば、目に見えるほどに顔が赤く染まる。

「ザカートさま……」

 待ちわびたアナスタシアの声を、ザカートは唇の熱を奪うことでそっと封じこめた。





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