第34話 スマイル牧場を発つ

 スマイル牧場を出発する日、つまりは愛子&フラワースマイルとしばしのお別れがやって来てしまった。その日は愛子の姪っ子エミと調教師を目指す彼氏の翔も見送りに来てくれた。


「駿馬にいちゃん、しっかりやって来て」

「おう!」

「駿馬さん、僕も来年には調教助手として朝井厩舎のお世話になる予定です。その時はまたよろしくお願いします」

「ああ、待ってるよ」


 二人に時間があったらレースを観にくるようにと伝えた。愛子からはすでにハヤテオウのデビュー戦と駿馬が初めてコンビを組む日には競馬場に応援に来ると伝えられている。


 スマイル牧場の代表としてハヤテオウのオーナー登録をするのだから、愛子は立派RRCのなV.I.P.だが、基本一人でフラワースマイルの世話をするので近隣のイナカノ競馬場に行く感覚で来るわけにはいかないだろう。従業員を雇えるようになれば、愛子がいつでも応援に来られるだろう。


 駿馬が愛子に再会できる日は早くて1ヶ月後、そんなに先のことではない。つらいのはフラワースマイルとのお別れとなるハヤテオウだろう。正式にRRC登録の競走馬になったら、そう簡単にスマイル牧場に戻ってこられないだろう。


 可能性としては放牧の時だが、2歳馬は基本的な体作りをしたり、競馬を覚える伸び盛りの時期なので、トレセンの厩舎で翌春まで過ごすこともある。おそらく来春、フラワーは白金ファームの種牡馬と交配して、無事にとまれば出産まで身重にある。そうなる前に再会させてあげたいが・・・そもそもハヤテがそんな現実を受け入れられるのか。


 やはりハヤテオウはフラワースマイルとの別れが寂しいようで、普段あまり出さないキュンキュンという声を出していた。馬房の方からも似たような声が返ってくる。愛子が馬運車を兼ねる愛用トラックを発車させて、スマイル牧場が完全に見えなくなるまでハヤテオウに心で話しかけるのは思い留まった。


 愛子はラジオを付けるでもなく、助手席の駿馬に話しかけるでもなく、まっすぐ前を向いて運転している。スマイル牧場に駆け込み寺のように住み込んで、ほとんどの時間を愛子と過ごしてきた。家族でも恋人でもなく、ビジネスパートナーという割り切りをしているでもなく。


 姫子と初めて打ち解けて、もし元の世界で同じ状況になっていたら、異性として少し気になっていたのかなと考えたりもしたのだろうか。実際、ほぼ男社会の競馬会で「剛腕」の異名を取る姫子は競馬を離れると、可愛らしい女性だ。一心不乱に騎手道を突き進んできたが、ダービーに勝利したら少し周りを見る余裕が生まれていたかもしれない。


「そうか・・・だから」

「ん、どうしたの?」

「あ、いや、何でも・・・ないです」

「こら、隠し事はよくないぞ〜」


 愛子が右手でハンドルを握りながら、左手の指で二の腕をツネってきた。全身に震えのようなものが起き、硬直してしまったことが恥ずかしくて愛子の方を見る。何も無かったように愛子は運転に集中していた。


 途中トイレに寄りたくなったので愛子に告げると、道端のコンビニエンスストアで停車してくれた。さすがに「愛子さんは?」とは聞けず、そさくさと済ませて戻ると、珍しく少しもじもじした様子を見せている。


「あ、私も行ってくる。車とハヤテ君を見てて」

「あ、はい」


 愛子が戻るのが少し遅いので、後ろのハヤテオウの様子を見ながら待つ。心の会話も試みたが、フラワースマイルとの別れが寂しく、あまり気分が乗らないようだ。寂しさを少しでも紛らわすようにフラワースマイルの愛用していたタオルを側面の手すりに巻きつけてあげたが、ずっとスリスリしたり、匂いをかいだりしている。


 助手席に戻り、馬は素直だな・・・と思いながら助手席で黄昏ていると愛子がコーヒーを両手に持ちながら戻ってきた。慌てて助手席のドアを開けて外に出ると、運転席側のドアも開けてからコーヒーの1つを受け取った。


「あ、ありがとう」

「私の淹れたやつより美味しくないかもだけど」


 そう言いながら愛子はペロッと舌を出して笑った。これまでになく心臓が高鳴るのを感じた駿馬は少し落ち着かせた後に「あのっ」と切り出した。


「ん、何?」

「ハヤテオウに乗ってダービーに勝ったら・・・」

「はい」

「勝ったら俺は愛(トウルルルッ)」

「もしもし・・・」


 突然の着信音に会話が遮られてしまった。駿馬は携帯電話など持っていないので愛子のものだ。勢いに任せて勇気を振り絞ったところに思わぬ邪魔が入り、会話の向こうの相手を恨めしく思ってしまった。


「・・・はい。はい。ありがとうございます。よろしくお願いします!」


 電話を切った愛子はくるりと駿馬の方を向く。そして満面の笑顔を浮かべて「駿馬くん」と呼びかけた。


「はい」

「武井さんが、ハヤテオウの騎乗を前向きに検討してくれるって」

「そ、そうか。それは良かった」

「その前に実際乗ってみたいから、週末のレースが終わった翌朝にはトレセンの朝井厩舎に来るそうよ」


 この世界のトップジョッキーか・・・思わぬ人物に邪魔をされてしまったが、次の勇気に期待するとして、ハヤテオウの登録とデビュー戦、そして自分のRRC騎手としての登録試験に集中することにした。

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君✖︎君のため人馬一体で異世界のダービーに勝つ方法 よしかわゆきじ @yoshikawayukiji

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