第31話 元の世界の記憶
翌日、早朝にハヤテオウのトレーニングを終えると、駿馬は朝食前に自分のランニングや体幹部のトレーニングも行った。体力強化もあるが、スマイル牧場にいる期間に愛子の手料理をできるだけ食べたかったし、新人期間は斤量の軽い馬に乗ることも想定しないといけない。
筋肉が増量しすぎると体脂肪率が落ちても体重は増えてしまうので、アウターマッスルはなるべく付かないようにしながら、体幹のバランスを取るためのインナーなど必要な場所は強化しないといけない。おそらく登録試験でもフィジカルデータと体重のバランスは査定要素になっていくだろう。
ハヤテオウの方は『ナンデモ電機ステークス』から2週間足らずで逞しさが増していた。背に跨り例の四角いビームをチェックするとスピードは変わらないが、坂道のランニングを入れたからかパワーが上がり、スタミナとメンタルが微増している。そして馬体重も見えるのだが、504キロまで絞れていた。
元の世界でナショナルダービーに出た時が496キロ、2歳の秋は500キロちょうどぐらいだったので、デビューに向けて良い流れは作れている気がする。最終的には専門家の調教師がトレセンで仕上げていくことになるが、少しでも良い状態で引継ぎたい思いで手を抜かずにやってきている。
一通りを終えて昼食というところでドンドンと外から大きな音がした。家屋のドアではない。さらに外側の柵に備えている木製の扉だが、壊れるんじゃないかと心配になる。愛子が出向き、客人を迎える。小柄な体に長いストレートヘアーを晒した牧野姫子が入ってきた。
「どうもお世話になります」
「どうぞ。冷たい紅茶でいいですか?」
「お構いなく。そいつぶん殴ったら帰るので」
「え!?」
「冗談ですよ。でも本当に失礼な奴だから。愛子さんがいなかったら本当にそうしているかも」
薄ピンク色のジャージ姿で、騎手学校の時を思い起こさせる。可愛らしい顔立ちだが強気な態度で知られ、しばしば男の騎手仲間や調教助手を震え上がらせていた。確かセクハラじみた質問をした新聞記者をその場で追い返したという話を駿馬も聞いたことがある。
それでも騎手としての能力は文句の付けようがなく、KRCの同期では駿馬に次ぐ成績を出していた。それもあって姫子にしたら駿馬は目の上のたんこぶみたいな存在なのか・・・最初は駿馬もそう考えていた。
しかし、そうではないと知ったのはずっと後になってからか。もう一人の女性ジョッキーから内緒で聞かされたのだ。駿馬と同じ晴れ舞台に立つために努力していると。それ以来、会話こそしないもののレースで会うたたびに軽い挨拶ぐらいはするようになった。一度、合同インタビューを受けたこともある。
「本当に私だって分からなかったの?」
「だって名前が違うし、ゴーグルを付けっぱなしで、あんなマスクしていたら・・・」
「ふん、それだけ日頃から私のことなんて眼中に無かったってことね。まあいいわ」
「ご、ごめん・・・それより、なぜこの世界に」
横から聞いていた愛子が訝しげな表情をしているので、駿馬は「姫子・・・さん、ハヤテオウを見に行かないか。そろそろフラワーと一緒に散歩してあげないと」と目配せしながら提案した。「姫子でいいわよ」と答えてきた姫子も事情を察して駿馬に従う。
駿馬は愛子に「ちょっと行ってきます」と伝えて外に出た。ハヤテオウとフラワースマイルを小川まで連れて行き、自由に水を飲ませながら座り込んだ。
「愛子さん・・・彼女に言ってないの?」
「ああ。怪しまれるのも嫌だし、無理に話さなくてもいい流れになって・・・」
「まあ私も言える立場じゃないけど。この世界に飛ばされてから、どうしていいか何も分からなくて。鮫島ファーム・・・グランドシャークのオーナーさんのところに押し掛けて、お世話になってるんだけど」
いくつか気になっていたことはあるが、駿馬から聞かれるともなしに姫子から話してくれた。彼女が落雷によってこの世界に飛ばされたのはナショナルオークスをラヴリービズと1着で駆け抜けた直後だという。ラヴリービズは鮫島ファームにおり、やはりRRCの登録馬になる準備をしているそうだ。
つまりは駿馬とハヤテオウが飛ばされる1週間前だ。駿馬はオークスのお手馬がなく、別の短距離馬のメインレースに乗るため他会場にいたが、不思議とラヴリービズの情報が頭の中から消えていた。あのレースで優勝したのはフライングガールだと記憶している。
「そっか・・・私とビズのことは記憶から消されていたのね」
「もちろん競馬学校のことは覚えているし、チョコ・・・」
「ダメ、それは言わないで!」
姫子は両手を覆って恥ずかしがった。意外と可愛いところがある・・・もともとそういう女の子だった。競馬学校での自分の態度が彼女を変えてしまったのかもしれない・・・そう駿馬が考えたのを見透かしたように姫子は言った。
「かなえが変なことを吹き込んだかもしれないけど、別にあなたのために頑張った訳じゃないから」
「あ、うん」
「駿馬も知ってると思うけど、うちはレスリングの家系で、お父さんからオリンピックを目指せと言われ続けて育った。それに反対して家出同然で競馬学校に行って、トップジョッキーになれなかったら家族に見せる顔がないでしょ」
「そうだな・・・家族か」
すっかり忘れていたが、駿馬にも両親や兄弟がいる。やはり家出同然で抜け出した口で、ジョッキーとしてランキング上位に乗る頃になって、急に連絡がきた時には呆れた。正直、むしろ元の世界では記憶から追いやっていたが、家族は家族だ。
姫子のことを覚えていたように、ダービーのことを除けば元の世界でも自分のことは記憶されているかもしれない。この世界で生きて行くと決断したが、信頼してくれていたオーナーや調教師、しのぎを削ったライバルたち、手紙で励ましてくれたファン。そうした人たちのことを思い浮かべ、一抹の寂しさが蘇ったことは否定できなかった。
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