第9話 あんた女だろ! 来るなよこんなところ!

 本棚の間を足早に歩いて、セツナさんに個室ブースの中に招かれる。

 セツナさんのブースは簡易ベッドがあって、アイコスやら化粧品が散らばっていた。カバンが枕元に幾つもあり、車かネカフェに備えられている会員制ロッカーにでも収めない限り、一人では持ち運べない量だった。

 半開きのバッグの中に、見覚えのある形をしたゴム状の棒が見えた。私が茫然として立ちすくんでいると、「まあまあ、ここ座りなさい」と言われた。

 セツナさんは灰色のベッドをポンポンと叩いた。ふと見上げると男たちが足をぶら下げてこちらを見ている気がした。

 薄暗いせいでカラスのように黒く、その数ははっきりとはわからなかった。


「危なかった~蜜柑ちゃん、鋭いわぁ。ガチ、睨んでたじゃない」

「ああ、やっぱり」

「バレたの早かったわね~。ああいうのって、よくないから。蜜柑ちゃんにたぶん掲示板で晒されるよ。写真撮られないようにね」

 あ、そうだ、とつぶやいて、セツナさんはマスクを取り出した。

「ほら、封あけたばかりだから」

 マスクは黒色で、近くの薬局で買ってきたようだった。一枚を袋から抜き取ると、「それで、写真隠し撮りされてネットに晒されることないから。あの人怖いわよ」と言った。

 メロンがすぐに浮気するので、蜜柑はいら立っているらしい。喧嘩中には見えなかった。


 マスクをすると、少し落ち着いた。二人とも無言になる。


 セツナさんが突然顔を寄せてきた。思わず身体をのけぞらせる。介護をやっている友達が老人にセクハラされた話が頭に浮かんだ。鼻をくんくんと鳴らして、「腐っても女の子ねえ。何十年ぶりかに、女性の匂いを嗅いだわ」と言って、セツナさんはすぐに離れた。

「腐って……って」

「香水つけてない女の子の匂いね。娘のこと思い出して泣いちゃいそう。孫の顔は見てないんだけどね」

 私はただ乾いた笑いをするのに精いっぱいだった。


 女装子が一番出入りする場所はやはりトイレだとセツナさんは言った。

 トイレのあたりでうろうろしているのが一番効率が良いらしい。

 移動中にマスクを外さないことと蜜柑に見つからないことを注意されて、ブースの外に出た。

 上の階からの視線は気にならなくなってきた。

 私とセツナさんが絡まなかったことを残念がっているかもしれない。


 ネカフェを装っていても男たちの場所ではあるので、トイレに男性女性の区別はない。

 左がシャワー室で、右が男性用トイレのみ。

 トイレの中は個室が三室あったが、すべて使用中だった。


 化粧室に入る。男性用トイレはあまり見たことがないので、まじまじと観察してしまう。

 水を流す音が聞こえた。トイレットペーパーを巻き取る音が激しい。あわてて出ていきそうになったが、ビールさんの可能性もある。個室に背を向けて待っていると、ドアが開いた。

 果実臭が漂い、タイルを打つヒールの音が大きい。出てきたのは蜜柑だった。

 振り向いた時に思いっきり目が合った。


「あ、どうも……」と私は思わず言葉を発してしまう。


 蜜柑はやっぱり男の人だと思った。見下ろす威圧感と、肩の大きさ、背の高さは圧倒される。「女性」でもあるので、値踏みするような目が強烈だ。

 蜜柑は無言のまま脇を通り過ぎた。

 私は、化粧直ししている蜜柑に向かって、「あの……」と話しかけた。


 公園で女装活動している人。二人の男を連れている。ビールの五〇〇ミリ缶を幾つも開けてしまう酒乱の人。

「ほんの少しでもいいんです」

 覚えていること全部を、背中を向けたままの蜜柑に伝えた。

 すると、目を真っ赤にした蜜柑が振り返って、トイレに外にまで響く声で怒鳴った。


「あんた女だろ! 来るなよこんなところ!!」


 私は身体がしびれたようになって、動けなかった。フロア中に響き渡るほどの怒鳴り声だった。私は、下を向いたまま、ぼんやりしていたように思う。

 セツナさんらしき人がものすごい形相で駆けつけてくれて、傍に大男もいたかもしれない。

 そこから私の記憶はぼんやりしている。退出用のカゴを持たされて、誰かに肩を抱えられて、階段を下りたんだと思う。

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