第2話 ビールの味
姉の葬式が終わって、それから精進落としもした。
商店街から少し外れたところにある小料理屋だった。料理が出てくるのがとても遅くて、話題も途切れがちになった。
亡くなった事実全てから逃げるように親戚と姉の思い出話をした。
姉には八歳の娘がいた。
葬儀の日の朝に、娘はお母さんに宛てて手紙を書いていた。
誰にも見せずに封をした。
それから封筒の回りにお気に入りのシールを貼ったり、ポケモンの絵を描いたり、大事に取っておいたものを全て使って手紙を飾っていた。
持っていた宝物すべてを使った手紙だった。
棺に眠る姉の胸元にその手紙は置かれた。置いたのも娘だった。
姉の夫は、姉の頭の周りに敷き詰められた花に、ビールを垂らしてあげた。
出産直後に発覚してから八年間の闘病生活だった。
姉は最後までお酒が好きだった。
姉の、明るい笑顔や声は、目を閉じて集中しなくても、いつでも思い出して聴くことができる。
私は姉のような母親になれそうになかった。
短大を出て、保育士の資格を取ったものの、実習で心が折れてしまった。お母さんは姉の子どもの面倒を見てばかりで、日がな一日ごろごろしている私のことなどお構いなしだった。
居酒屋のバイトまで、まだしばらく時間があった。
起きてから、ずっとスマホしか触っていない。ビールさんが時々頭に浮かぶ。
私はビールさんと出会って眠って起きて姉が死んだあの日を、もう一度思い出そうとした。
あの時、バイト帰りの深夜の大きな公園で、私は家に帰らずに過ごしていた。
もしかしたら助かるかもしれないと必死に看病する母が眠る中、物音を一切立てずに帰るのは難しい。
ある程度陽が昇って、朝食を作るために母が起きだすタイミングで帰りたかった。
時間を潰すために、公園で自転車をウロウロと漕いでいたら、人が集まっているたまり場を見つけた。
最初は、不良とその連れの女性たちだろうと思っていた。怖くて、遠巻きに眺めた。
が、どうも女性のほうが男たちよりも背が高く、モデルのようだ。男性よりも体格が大きい女性もいる。
変だなと思って遠目から眺めていると、女性の一人から手招きされた。
驚いて動けずにいると、どんどん向こうから近づいてくる。
女装した男だとわかった瞬間、逃げ出しそうになったが、第一声が「あなたも女装さんですか?」だった。
「恥ずかしがってないで来なよ。ほらほら」とフランクな感じだった。
不良に見えていた男たちは、スーツのサラリーマンや大学生もいて、年齢は様々だった。
市民プールもある、大きな総合公園で、人目につかないところで集まっていたのだ。帰りたくなくて遠巻きに立って、女だということがバレないことを楽しんでいたら、ビールさんに、トイレの中に誘われた。
ビールさんは、私にとって痛々しいほど明るい女装子だった。
結婚して子どもすら産みそうだった。
ビールさんは「肌が綺麗で、声も低くなくて、今度絶対女の子の服を着て、ここに来て欲しい。女装の才能あるよ」と私に何度も言った。
あまりに嬉しそうに話すので、私も笑顔になって頷いていた。
女装好きの男たちにはみんな、帰るべき家がちゃんとあることがわかったけれども、ビールさんは誰かの家に泊まった話題ばかりだった。
「こんなことで生きていくなんて無理だから」とつぶやいて、周りの笑いを誘うようにビールを煽った。「こんなこと」とは女装することを指していた。
ビールさんはみんなに酔っている自分を見せようとしていた。
何かをわかって欲しそうに。
それから私の傍に何度も来て、綺麗に剃られた手や腕を触らせてくれた。男性とは思えない驚くほど痩せた腕で、私は病人の手を温めるようにさすっていた。
ほのかなビールの味。
人とキスをする時は、相手を受け入れようと、いきなり本気で走り出すような気持ちにならないといけない。
相手に応えようとするけれど、その方法がわからない。だから、映画で学んだ、なんとなくのふるまいをする。唇を離して、相手を見詰めるようなフリだ。
女性だとバレた瞬間の、ビールさんの戸惑い。逡巡。
私が、この人を満足させないといけないと考えたこと。それが相手に伝わって、お互い、いつキスをやめたらいいのかわからなくなったこと。
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