ビールさん
猿川西瓜
第1話 姉
姉が死ぬ日に、私は、深夜の多目的トイレの中で、女装した男性とディープキスしていた。
九月も終わりに差し掛かっているのに、朝の四時頃になっても日中のように蒸し暑かった。
公園に設置された多目的トイレの中は、コバエが何匹も飛んでいた。
蟻と蜘蛛が足元を這いずり回っていた。蚊がいなかったのは救いだったけれど、ムカデが出るらしくずっと怖かった。
キスの時間は長かったのか短かったのか、わからなかった。
その女装男子を私は“ビールさん”と呼ぶことにした。
私を多目的トイレに誘う前、ビールの五〇〇ミリ缶を幾本も開けていたからだ。
身体を傷みつけるような飲み方だった。
陽気な声で笑っていたけれど、本当は止めて欲しかったかもしれない。
年齢は二十代後半だったように思う。華奢な体と、長い脚。
近くで見ると、うっすらとヒゲの青さが見えたけれども「キスが好きなの」と言われたことのほうが印象的だった。
ブラウンのロングウィッグは違和感がなくて、セシルマクビーのワンピースを着ていた。
ベージュのストッキングを履いて、靴はハイヒールだった。
キスをしはじめてすぐに、私が女性だとわかったみたいだった。
私の格好は、サイズの大きい灰色のパーカー、ジーパンとスニーカー。髪は乾燥してまとまりがないし、女性にしてはヒゲも濃いほうだった。
女と気づいた後も、しばらくキスを続けた。二人ともキスに疲れたら、抱き合うだけになった。
ビールさんにはちゃんと胸があった。本物かどうかはわからなかった。
トイレの臭いに混じって、甘い香りがした。
色々な虫が地面に這っていることを思い出しながら、深呼吸した。
私のほうが頭一つ分くらい背が低かったから、男の人に抱きしめられている感じがした。
家族に抱きしめられることと、決定的に違っていた。
ビールさんは「もうあなたを手放します」という抱き方を私にした。
身体を離すと、ビールさんは化粧直しをすると言った。私は一人でトイレを出る。外が明るくなってきていた。
公園の木々に止まっているカラスが激しく鳴いていた。自分が、シャツにべっとりつくほど汗をかいていることを、朝の冷たい空気が教えてくれる。
ほかの女装たちは、朝方になるとヒゲが濃くなって困るという笑い話をしていた。私は、あまり明るくなると女性であることがバレそうだから、ごく自然に距離を置きながら、その場から去ろうとした。
トイレのドアが開いて、ビールさんが出てきた。
ビールさんは何度か手を振ってくれた。
私は、ビールさんを満足させられなかったことに、罪悪感があった。過去に、幾度かあった。高校や短大の頃に、幻滅されたことが。
ビールさんの後ろには、いつの間にか黒いTシャツの男性が二人、立っていた。顎を使って、ビールさんを所持品のように扱って、連れていこうとした。去り際にもう一度、ビールさんは私のほうを振り返った。その目は、少なくともキスの続きを求めるものではなかった。
カラスの声が静まると、鳩と雀の声が始まる。
ふらふらになりながら、自転車を漕いで、朝六時に帰宅した。
父や母は、姉の容体について話していた。
いつでも病院に駆け付けられるように。
私に「おかえり」の一言もない。
病気と闘いながら子どもを育てた姉がいよいよ……という時になっても、私は家族を安心させるような人間になれていなかった。
私は泥のように眠って、昼に起きた。
家に家族は誰もいなかった。
ダイニングテーブルの皿に盛られたチャーハンが、サランラップの水滴で曇っていた。
午後四時、姉が亡くなった。
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