第11話 ほけんだより

 この高校では月に一度、保健室からほけんだよりが配られる。でも高校生になってまでそんなものをじっくり読む人はほとんどおらず、大抵はすぐにゴミ箱行きだ。つまり何を言いたいかというと、わたしは毎月のほけんだよりを隅から隅まで熟読しているということだ。

 わたしがシャーペンを走らせる音と文原ふみはら先生がパソコンのキーボードを叩く音だけが響く。放課後の保健室は平和だ。

 授業で配られた物理のプリントを取り出そうとして、同じファイルに挟まっていたほけんだよりを落としてしまった。するすると床を滑っていく。

「はい」

 目の前にプリントを持った文原先生の手が現れる。

「ありがとうございます」

 わざわざ立ち上がって拾ってくれる、こういうところがすごく好きだ。

「ん? これって先月のほけんだより?」

「そうですけど」

「なんで持ってるの」

 ふ、と笑う先生がかわいい。かわいいとはこの場合、愛おしいのことだ。

「毎月配ってるけど、ほけんだよりが誰かの役に立っている気がしない」

 珍しく不貞腐れてた様子だ。何かあったのかもしれない。

 先生の体重を預かった椅子がギ、と鳴る。そういうことを意識するたび、わたしは先生の持ち物を羨ましく思う。わたしだって文原先生のものになりたいのに。

「わたしはちゃんと毎月読んでますよ。なんならファイリングして保管してます」

「いや、そこまでしてくれなくて良いんだけど。それに沙穂子さほこちゃんはノーカウント。ほとんど身内票みたいなものじゃないか」

「……それは否定できませんけど、でも好きな人が書く文章なんて、気になるに決まってるじゃないですか」

 文原先生がどんな言葉を選び、何を好み、何を嫌い、何を見て聞いて感じているのか、わたしだって知りたい。ほんの少しでも文原先生を理解したいのだ。

 文原先生が浅くため息をつき、少しだけ目を伏せる。

「この前生徒の荷物を持っていったときに見たんだよ、底でぐしゃぐしゃになったほけんだり。しかも立て続けに二人もいて、終いにはそのクラスの紙ごみ入れに捨てられてるのを見た。ちょっと落ち込む」

 わたしが「好きな人」と言ったことは無視ですか、と言いたくもなったが、落ち込んでいる文原先生はなかなかレアなのでつい惹き込まれてしまう。

「それ、誰ですか。わたしが許しません!」

 思ったより怖い声が出てしまったので「冗談ですけど」と付け足しておく。すると先生がくすくす笑った。

「ありがとう。悪いね、愚痴を聞いてもらって」

「文原先生のなら大歓迎です。むしろ聞きたいくらいです。わざわざ嫌なことを思い出させたくないから聞いてないだけで」

「あぁ、そっか」

「ほけんだよりも、先月の五月病の話おもしろかったですよ」

 それは良かった、と先生が微笑む。この人は、本当になんてかわいいんだろう。白衣を羽織った文原先生が眩しくて、わたしはゆっくりと瞬きをした。


 その二日後、四月のほけんだよりが配られた。内容は健康診断と保健室の利用について。わたしは休み時間に一人、教室でじっくりと文原先生の言葉に向き合っていた。


 みなさん、入学・進級おめでとうございます。桜の花はそろそろ見納めですが、今度はツツジの花が咲いていますね。天気がいい日は、中庭でお昼を食べるのもいいですよ。

 今年度も保健室ではみなさんが健やかに高校生活を過ごすお手伝いができたらと思っています。何かあった時は、誰でもいつでも気軽に保健室を利用してくださいね。

 また、保健室からは毎月ほけんだよりを発行しています。


 いつも通りに優しい言葉を瞳でなぞっていると、不意に最後の文が浮き上がって見えた。そこだけが、星屑みたいに煌めく。


 いつもほけんだよりを読んでくれてありがとう。

 今は不安もあるかもしれませんが、きっと楽しい一年になりますよ。


 それは決してわたしだけに向けた言葉ではないと、確信していた。だって、文原先生は本当に公平な人だから。でも、理性以外の部分がそうじゃないと判断したがる。

「……やだ」

 これじゃあ今日は保健室に行けないかもしれない。なんだか、文原先生の顔を見れる気がしない。

 どうしてあの人は、こんなにも簡単にわたしの心を支配してしまうのだろう。頬が熱くて、血の巡りが速くなっているのを感じる。

 わたしはほけんだよりをファイルに丁寧にしまって、次の授業へと向かった。抱えているのは天体望遠鏡で、今から遥か遠くの一等星に会いに行く。そんな気分だった。

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