第10話 大人
わたしは男の人が嫌だ。乱暴で、不潔で、弱者だと決めつけた人を恐怖で徹底的に支配し、自分の欲求のためだけに使おうとする。もちろんそんな人だけではないと信じているが、わたしの男の人への不信感はずっと拭いきれずにこびりついている。
明確なきっかけは思い出したくもない。不意に顔を見せることもあるが、なんとか目を瞑って、そらして生活している。
「でも、だからって
大人、子ども、子ども、大人、学生、学生、お年寄り。沢山の人で賑わう日曜日のショッピングモールは飴玉みたいな雰囲気だ。あちこちからまあるい感情が飛んではころころと落ちていく。
わたしがぼうっとしている間も陽ちゃんは気を揉んでいたようだ。
「…でも、ごめん。こういうのって沙穂子自身が決めることだよね。お節介だったかも」
「そ、そ、そんなことないっ!」
わたしは思わず食い気味に答える。陽ちゃんは確かに世話焼きな気質ではあるが、それは決して嫌なものではないのだ。そもそも、わたしへの心配という意味では
「…本当? あたしのこと嫌になってない?」
陽ちゃんが子犬のようにうるうる覗き込んでくる。あざとい。が、かわいい。
「…い、嫌になるわけないでしょ。今日も陽ちゃんと二人で出かけてすごく嬉しいんだから」
陽ちゃんがにっこり笑う。陽ちゃんはこういう所がある。普段はさっぱりした性格で、友達も男女問わず多いが、仲良くなると途端に甘えだす。かわいいな、と思う一方で、人としてのスキルに感心する。経験上、こういうタイプの人は好かれやすい。
「でさ、話戻すんだけど沙穂子はメイクとか、髪型凝ったりとかもしないよね。なんで? いや、そのままでもめちゃくちゃかわいいけど…。あ、でも一年のときはなんか凝ったりしてた気がする。そのときは全然知り合ってなかったからめっちゃ朧げだけど」
わたしが「いやぁ…」と曖昧に返しているせいで、陽ちゃんは少々ヒートアップしてくる。
「だって社会人になったら急にメイクしなくちゃいけないんだよ? 絶対困るじゃん。あたしはいきなりできないよ、絶対。今の沙穂子は本当にそういうのに興味ないの? 男嫌いなのと何の関係があるの?」
陽ちゃんは心底わからないという顔をする。実際そうなのだろう。
わたしが男の人を苦手になったきっかけを知っているのは瑞季くんと
陽ちゃんが言ったことを反芻する。高校生、受験生、上手くいけば大学生、上手くいけば社会人。エトセトラ。わたしはふっと目の前に巨大なドミノが並んでいるような気分になった。そのドミノに全力でぶつかってもその先が順調に、滑らかに倒れていくとは限らないという現実。等間隔に整列し、上手くつながる出来事なんて存在しない。
「あ! ねぇ、沙穂子見て! このリップの色めっちゃかわいい! 新色かなぁ。あとこのピアスもいいなぁ。あたしも早く穴開けたーい」
「ほんとだ」
わたしは心ここに在らずの状態で口だけを動かした。
「早く大人になりたい…?」
「なんで疑問形なの」
不意に文原先生が視界に入る。十分ほど前、他の先生に呼ばれて席を外していたのだ。
「…びっくりしました。おかえりなさい」
ただいまと先生が目を細める。それだけで一層愛おしさが増す。わたしは誤魔化すようにシャーペンを二回カチカチ鳴らす。
わたしは三年生になってから放課後は保健室で自習をして過ごすと決めた。今までも大抵はそうだったのでさして変わらないが、先生は気を遣ってかあまり雑用を頼まなくなった。いつも穏やかにわたしを受け入れ、空間を共有することを許してくれる。文原先生の保健室は居心地がいい。
「僕は少し休憩するけど」
先生はそう言って紅茶を淹れ始めた。わたしも自分の水筒を手に取る。
「じゃあわたしも休憩にしようかな」
文原先生はちらりとわたしに目を合わし「マネしたな」と歯を見せて笑った。ずっきゅん。
「さっきの、なんだったの?」
机を挟んで先生とわたしが向かい合う。不定期に行われる、二人だけのお茶会。
「え。…あぁ」
さっきのことを思い出して顔が熱くなる。勉強してるかと思えば「大人になりたい…?」とぼんやりしていたのを見られるなんて恥ずかしすぎる。文原先生がいないことに油断してうっかり声が出てしまったのだ。
「…なんでもないです」
「そう?」
文原先生にじっと見つめられると全身に熱が満ちていくのを感じる。それは頭のてっぺんから爪の先まで膨らんで、わたしの中から鬱陶しいものが弾き出される。わたしの思考はどんどんシンプルになって、素直な言葉が出る。
「…なんか怖くて」
「うん」
「みんなが当たり前にできていることができていない気がして。絶対そんなことはないのに、わたしだけ取り残されてるような、考えすぎだってわかってるけど…なんか自分が欠落してるように思えて」
未来が近づく引力に、わたしだけが逆らって駄々をこねているようだ。頭では絶対にそんなことはないとわかっていても、感情の処理が追いつかない。言葉を吐き出すと共に文原先生の顔を見れなくなる。わたしは文原先生に何を望んでいるんだろうか。
「ずっとあのときのことを引きずってるのだって馬鹿みたいだと思うし」
「それは違う」
ぱっと先生と目が合った。すごく真剣な表情の先生を見て、一瞬で後悔が込み上げてきた。だからやめた方がよかったのに。先生を巻き込みたくないと思いながら、わたしはいつも先生に要らぬ心労をかけ、わたしばかりが勝手に救われている。
「沙穂子ちゃんがそれを引きずっているとしても、それは沙穂子ちゃんのせいじゃない。きみは十分すぎるくらい頑張ってる。沙穂子ちゃんは大丈夫だよ、多分ね」
文原先生はこういうとき『絶対』と言わない。それが余計に人を追い詰めることがあるとわかっているからだ。そんな人がわたしに対して責任を負おうとしてくれる。嬉しいはずなのに、わたしは真っ直ぐ喜ぶことができない。わたしはまた先生に重いものを持たせようとしている。自己嫌悪のループだ。
「…ごめんなさい」
「僕は沙穂子ちゃんに謝ってもらうようなことは何もされてない。きみは必要以上に謝るべきじゃない。自分で自分の価値を下げるなと前も言ったはずだ」
いつもより語気が強い。先生にここまで言わせてしまうのが心苦しい。
「あぁ、ごめん。ちょっと言い方がキツかった」
先生が慌てて謝ってくる。わたしは静かに首を横に振った。
「…文原先生なら怖くない。謝らないで…」
言いながら視界が滲んだ。スカートを握る力が強くなる。わたしは文原先生の前で泣いてばかりだ。そんな自分に心底うんざりする。
「…また先生を困らせちゃいましたね」
水色のカーディガンの袖が涙で濡れ、グレーのスカートは雨上がりのアスファルトのようだ。
「…困ってないよ。僕がやりたくてやった」
先生がティッシュを差し出す。するとまた涙の波が寄せてくる。
「大丈夫。ゆっくり落ち着いて」
わたしは先生の言葉に合わせて息を整える。
「…きみの感情はきみだけのものだから、無理に泣き止む必要もない。誰かにきみのせいだと言われることがあっても、その感情もまたその誰かだけのものだ。きみが入り込めるものではない。だからきみが考えすぎることじゃない。…僕の感情だって、僕だけのものだ」
先生は自分に言い聞かせるように言葉をしまった。先生はどこからどう見ても大人の形をしていて、わたしはそれで安心したり悲しくなったりする。わたしも文原先生の感情を勝手に見積もっているのかもしれない。でもそんなことを言葉にするエネルギーはわたしに残っておらず、今はただ重いだけの鉛が底に溜まっていく。
「…勉強します。休憩、長くなっちゃった」
まだ涙は乾いていない。でも何も考えずに淡々と問題を解く方が気分が落ち着きそうだ。
「うん。僕も仕事に戻るよ」
先生はわたしから離れていく。
こういうことを考えるたび、わたしが文原先生を好きになったことも後悔してしまいそうになる。でも後悔なんかしない。するものか。それだけが今のわたしを支えているのだから。
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