第6話 昔話
放課後の保健室で、わたしは絶句した。
わたしは、今までずっと好いてきた
文原先生の髪から覗く耳。そして、そこに開いた二つの穴——。
「え、ちょっと待って! 先生ピアス開けてんの!? しかも二つ!?」
衝撃を受けるわたしを横目に、先生はすっとぼけた表情をして言った。
「急に静かになったと思えば…。知らなかったんだ? ピアス」
先生がわかりやすく髪をかきあげてみせる。確かに二つ穴が開いている。
「最近は使ってないからもはや塞がっているんだけどね。まぁ、昔はほら、僕も若かったから」
わたしは今まで先生の、好きな人の過去のことなど考えてもみなかった。なんて惜しいことを。
「先生! 昔話をしてください!」
耳に開いた二つの穴。
その他にもきっとあるはずだ。わたしの知らない先生の姿が。
「今日は特にやらなくちゃいけないこともないしね。…いいよ、どこから話そうか」
先生が返事をしている間も、やっぱりわたしの目線は先生の耳に注がれていた。
わたしの目にビームが付いていたら、この数分の間に先生のピアスの穴は再び開いていたかもしてない。
先生はゆっくりと話し始めた。
そうだね、どこから話したらいいかな。職業柄、他人の話はよく聞くけれど、自分の話は特にする機会がなくてね。気づかないうちに苦手になっているかもしてない。沙穂子ちゃんが決めてよ。何が聞きたい? え、ピアス開けた理由? あぁ、それは大した話ではないんだ。開けたのは、確か…一個目が高三の夏休みで、二個目は大学入ってからだね。一個目は本当に…若気の至りというか、ノリという名の勢いだったね。大学受験を控えてて、少し気が滅入っていたものだから、何か楽しいことがしたかったんだよ。幸い、僕が通っていた高校は校則もあんまりなくてね、成績がよっぽど悪くない限りピアスくらいでは何も言われなかったんだよ。当時つるんでいた奴らと開けた。二個目は…そうだね、これも勢いではあったけれど、若気の至りではないかな。大学に入って、自分の進路がなんとなく見えてきて。それはとても安心する材料だったけれど、それと同じくらい、多分当時の僕からしたらそれを上回るくらい不安なことでもあった。自分の進路が見えてきて、周りの奴らもそんな感じで、「こんなはずじゃなかった」とまでは思わなかったけれど、なんというか、ほんのりとした心残りがたくさんあるような気がしてね。何か、確かなものが欲しかったんだ。時間が経っても記憶のように消えない、他の人がわからなくても自分でちゃんと理解することができる、そんなものがね。あと、単純に心の余裕がなかったのもあるな。だから、目に見える隙、というか穴なんだけど、が欲しかったんだ。風通しを、よくしたかった。…正直、一個目も二個目も大して使わなかったけどね。僕は洒落っ気のある人ではないし。ずっと同じものをつけていたよ。…わかった、まだ捨ててなかったら今度見せてあげるよ。さて、ピアスの話はこんなものだけど。他に何か聞きたいことはある?
文原先生のピアスについて話を一通り聞き、わたしはほぅ、と息をついた。
「他に聞きたいこと…」
聞きたいことなんて山ほどある。でも、いざ聞かれると全然出てこないのはなぜだろう。
わたしはしばらく考え(その間も文原先生はわたしを待っていてくれた)なんとか聞きたいことを捻り出した。
「先生の、もっと小さいときの話が聞きたいです」
「小さいとき、というと小学生の頃とか?」
わたしは二、三度頷いてみせる。
「…アバウトすぎない? 言わなかったっけ。自分の話をするのは得意ではないんだ。もうちょっとないの?」
文句を言われてしまった。
「じゃあ…先生が先生になった理由、とか」
「…それなら、そうだね。なんとか話せるかもしれない」
まず最初に断っておきたいんだけど、僕は特にこの職業に憧れていたわけではないんだ。それなりの誇りを持って仕事をしてはいるけれど、保健室の先生に助けてもらったことがある、とか、よく話していた、とか。そういう経験から憧れを持ってこの職業を選んだわけじゃない。でも…そうだね、強いてあげるなら小学校の保健室の先生が好きだったのかもしれない。名前は、忘れたな。仮に田中先生としよう。え、女性だよ。年は、多分四、五十代くらいじゃなかったかな。…それ、関係あるの? まぁ、いいよ。それで、田中先生という方がいたんだ。田中先生はとても綺麗な人だった。造形が優れていたわけではなくて、とても澄んだ空気を纏った人だったんだ。そのおかげか、田中先生のいる保健室はいつも神聖で、全てが浄化されそうな、そんな場所だった。僕はわりと大多数のうちの一人というような生徒だったから、保健室に行くのは低学年のときに数回といった程度だったけれど、田中先生のことはなんとなく印象に残っていたんだ。高校生のときに将来の進路を決めることになって、なりたい職業について考えた。すると不思議と養護教諭という選択肢が浮かんできたんだ。何て言うかな、僕はそういう、田中先生みたいな空気の居心地の良さに憧れてたのかもしれない。…多分、僕が養護教諭への道を進むと決めたのはその時だね。
へぇ、とも、ふうん、ともつかぬ息が漏れた。文原先生は昔から文原先生だったのだなあ、と話を聞いて思った。
「先生になった理由は以上だよ。もしかしたら、もっと他にあるのかもしれないけれど、僕が自分で把握しているのはここまでだ」
「先生の、昔の話をもっと聞きたいです。…これから、もっと教えてほしい」
先生は少し不思議そうに首を傾げた。わたしよりも硬そうな髪が首の動きに合わせて揺れる。
「…今度は、沙穂子ちゃんの話を聞かせてよ。沙穂子ちゃんはあまり自分の話をしないから、気になるなあ」
先生はにっこりと戯けて笑ってみせた。
先生の頼みとあっては仕方がない。
「そうですね、じゃあ…」
この日の放課後、わたしたちは下校時間ギリギリまで互いの昔話に花を咲かせた。やっぱり、文原先生の過去を知れるのは楽しいし嬉しい。
…でも、できれば、この先の未来の話を一緒にできたら、それが一番嬉しいのになあ。
先生の整った横顔を見つめ、わたしは口の中で呟いてみた。
これを実際口にするほど、わたしは馬鹿ではないのだろう。
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