第4話 始業式

 今日は始業式だった。

 式典がある日はいつも少し憂鬱で、それと同じくらいうきうきする。

「先生ー!!!」

「今日はまた勢いがすごいね。始業式お疲れ様」

「そうなの! 始業式すごく疲れたんだけど、そうじゃなくて! 先生、今日スーツじゃん!!!」

 そう、式典の日は教員全員がスーツを着る。もちろん、養護教諭の文原先生も例外ではない。

 じっと目の前の先生を見てみる。

 黒のスーツ。シルエットが綺麗で、かっこいい。足元も、いつものダサいサンダルやスニーカーではなく光沢感のある革靴だ。

「先生…かっこいいね…好き。スーツが似合っている先生好き!」

 文原先生は半ば苦笑気味に応えた。

「ありがとう。沙穂子ちゃん、僕がスーツ着るたびに言ってくれるよね。そんなに気に入ってるの?」

「そりゃあ、もちろん!」

 わたしは文原先生の方へずい、と一歩踏み出す。

「普段の白衣も似合っててかっこいいけれど、中身はただの紺色のシャツに茶色のチノパンでしょ? 先生が黒のスーツ着る機会なんて式典がある日だけだもん。毎回楽しみにしてるんだから」

 わたしはまだ興奮が収まらず、やや早口になっている。

「わ、わかったよ…。着替えようかと思っていたけれど…」

 わたしは強い意志を持って先生を見つめる。キガエル、ダメ、ゼッタイ。

「そうだね、今日はあと二時間ほどであがりだし、このままでいようかな」

 勝った。わたしはこの戦いに勝った。

 わたしが心の中で勝利の雄叫びをあげている間も、先生は何やらぶつぶつと「いつもの格好の方が楽なんだけどなぁ…」などと言っているが、そんなことは関係ない。わたしは勝ったのだ。

 勝利宣言に夢中で、わたしの脳は大切なことを処理するのに時間がかかったようだ。

「…え、ちょっと待って。今日、あと二時間で帰るの?!」

 先生が少しだけしまった、という顔をした気がした。

「ああ、うん。そうなんだ。今日は早くあがらなくちゃいけなくて。…だからって何もな」

「わたし!」

「…はい」

 思わず先生の言葉を遮ってしまった。でも、そんなことには構わない。

「わたし、今日ここにいる! 二時間後に帰る! 先生と一緒に!」

 先生は不思議そうに首を傾げた。かわいい。

「いいけど…。僕は車だから一緒には帰れないよ? たとえ帰れたとしても、生徒と一緒は良くないからね。先に帰ってもらう」

「…じゃあ、駐車場まで一緒に行く」

「それなら…いいか」

 二時間という時間は、スーツ姿の先生を堪能していればあっという間に過ぎてしまうほど短いものだった。


「…なんか楽しそうだね」

 わたしは改めて先生を上から下まで見つめる。

「もちろん! …だって、なんかデートしてるみたいじゃない?」

「今のは、聞かなかったことに…」

「しないで!!!」

 わたしは今、先生と肩を並べて歩いている。しかし、わたしは制服を着ていて、先生はスーツを着ている。どこからどう見ても、どこぞの学生と社会人にしか見えないだろう。そんなことは、当然のようにわかっていた。

「…先生」

 少しだけ声が震えた。

「ん?」

「今日は始業式でした」

「そうだね」

「先生は保健室の先生で、担任にはなってもらえないので残念です」

「そっか」

「わたし、もう三年生です」

「うん」

「あと一年で卒業します」

「留年しないでね」

「…しませんよ。わたし、成績悪くはないんですよ?」

「それは、失礼」

 先生が冗談っぽい雰囲気に持っていこうとする。わたしは、わざと気づかないふりをする。

「わたし、あと一年で生徒じゃなくなります」

「うん」

「先生は、いつも仰ってますよね。『卒業してもそう思っていたら教えて』と」

「…そうだね」

「…あと、一年です。あと、一年…」

「僕は」

 文原先生がわたしの言葉を遮った。その瞬間、わたしの世界にひびが入る。

「…僕は、その先を君に言わせるつもりはないよ。今も、多分これからも」

 いつの間にか先生の車の前に辿り着いていた。車窓に空が映っている。もう夕方だ。

「…先生、どういう意味ですか」

「…さあね」

 先生は、「危ないから下がって」と言いながら車に乗り込んだ。シルバーの、新しくはないけれど丁寧に使われていそうな、先生の車。

「…先生、また、明日」

 先生は最後ににっこり笑ってみせた

「また明日。沙穂子ちゃん」

 先生を乗せた車が、わたしから遠ざかっていく。先生をどこまで乗せるつもりか、教える気など、さらさらなさそうに発進していった。

 わたしはしばらく手を振って、先生の車を見送った。


 わたしは少し疲れていた。

 先生に近づこうとするたびに、先生が一歩二歩と後ろへ下がっていくようだ。


 あと一年。


 一年後のことなど、今は考えられそうにない。

 わたしは疲れた。

 家に帰ってからも、いつもの自習の時間を削って一時間ほど眠ってしまった。

 …夢の内容は、覚えていない。

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