第5話 陽ちゃん

 放課後になった。

「…佐藤さとう立花たちばな!今すぐこの子を剥がしてくれ…!」

 保健室に入るとデスクワークをしている文原ふみはら先生の背中が目に入った。だから…抱きついてみた。不可抗力なのだ。仕方ない。

「ほーら、沙穂子さほこ! 先生困ってるでしょ? 離れてあげなよ」

 わたしはチッと舌打ちをする。正確に言えば、わたしは舌打ちができないのでチ、と声に出しただけだが。

久野ひさの、頼むから勘弁してくれ。僕が懲戒免職くらう羽目になったらどうするんだ」

 文原先生はわかりやすくため息をつく。

「そうだよ、沙穂子。先生のこと好きなら焦ることないじゃん」

「いや、立花。そうじゃないだろう…」

「それもそうだね、ようちゃん」

「久野も納得するのか…」

 陽ちゃんとわたしがやや見当外れの会話を楽しんでいると、わたしの視界の端で瑞希くんが忍び笑いをしているのが気になった。

「…先生、今日は久野のこと名前で呼ばないんですか」

『沙穂子ちゃん』わたしは普段、文原先生にそう呼ばれている。というか呼ばせている。

 スマートな対応が印象的な文原先生だが、この瑞希くんの言葉にはそれなりの反応を示した。

「…佐藤。この前言ったことは忘れろ」

 先生は心底うんざりしながら少し照れている。なぜ照れる。わたしがきょとんとしていることが伝わり、瑞希くんはますます口角を上げた。

「…それはそうとして。君ら、今日は何の用? 久野はともかく…」

「文原先生。わたし、の、名前」

「…沙穂子ちゃんはともかく。委員会の用事でもなさそうだし。そもそも、立花は保健室なんか滅多に使わないじゃないか」

「めっ…」

 滅多に保健室を使わない陽ちゃんの名前まで覚えているところ、好きですよ。と言いかけたが、さすがに友達が二人もいる前だと言えない。文原先生の話は二人にもよくするのに、この違いは何なのだろう。

 わたしの思いを感じ取ったのか、三人とも特に何も言わなかった。ただ聞こえなかっただけかもしれない。

「今日は沙穂子のお供です。…先生は、自分のデスクに飾られている花がどこから来たものなのか、考えたことはありますか?」

 陽ちゃんはやや得意気だ。

「立花は、園芸部なのか。…それとも家が花屋とか?」

「前者です」

 そう、わたしの友達である陽ちゃんは園芸部員だ。そして、わたしにたびたび花をくれる人でもある。

よう、本当に久野のこと好きだよな」

「沙穂子はマジで天使だから。沙穂子を傷つける奴は…斬る」

「斬るのか」

「陽ちゃんカッコいいー!」

「久野、お前テキトーに言っただろう」

 わたしたち三人の会話はいつもこんな感じだ。どうでもいいことばかりを話す。わたしは、それがとても好き。

「…本題に戻ってもいいかな。今日はなんの用?」

 文原先生は少し呆れ顔だ。

「今日も花を届けに来たんです。かわいい花が咲いたから沙穂子にあげたら、沙穂子が文原先生にあげたいって」

「先生、お花は、好きですか?」

「そこそこ、はね。僕はそんなにまめな方ではないから自分では育てられないけれど。今デスクの上に置かれているものだって、沙穂子ちゃんが世話をしてくれなきゃすぐに枯れちゃったんじゃないかな」

「わたし、先生が水あげてるの見たことあります」

「たまたまだよ。今日持ってきてくれた花は?」

「これです…」

 わたしは小さなプランターを持ち上げる。その中でマーガレットがゆらゆらと笑い、白く輝いている。

「ええと、これは何て言ったかな。…あ、マーガレット、だっけ?」

 瞳をぐるぐると巡らす先生がかわいい。

「そうです。…先生は、恋占いとかしたことありますか?」

「あぁ、マーガレットって占いに使うやつだったか。…あったかもしれないけど、忘れたな。これでやるの? 占い」

「やりませんよ。せっかく咲いた花ちぎりたくないですし。…聞いてみた、だけです」

「そうですよ、久野は聞いてみただけですよ?」

 瑞希くんは相変わらず意地の悪い笑みを浮かべている。いつものにこにこ、という感じではなく、にやにや、という感じだ。

「…佐藤は黙っておけ。占いをしたいなら、花びらの枚数を数えたら? 好き、嫌い、好き…ってやるやつだよな。奇数か偶数かでわかるじゃないか」

 先生が恋占いをするジェスチャーをして言った。先生は誰かを想って花びらを数えたことが、あるのかもしれない。

「それもそうですね。数えてみます」

 いち、に、さん…わたしは何個か咲いている花のうち手前の一つのものの花びらを数え始めた。しかし、すぐに手が止まる。声に出して数えていたので、他の三人も気づいたようだ。

「にじゅう…」

 わたしは激しく後悔した。こんな軽い気持ちでやるべきではなかった。だって、先生の目の前で、こんな…。

 誰も何も言えないでいると、先生が何やら思い出したように「あ」と声を漏らした。

「沙穂子ちゃん。もう一回数え直してみなよ。…僕の記憶が間違っていなければ、マーガレットの花びらの枚数は基本的に奇数なんだ」

 わたしは再び同じ花に飛びつく。

「…にじゅう、いち! 本当だ! 先生、奇数になった!」

 瑞希くんと陽ちゃんも安心したように笑った。

「よかったあ…! 先生、『好き』ですよ」

「占いの結果が、ね。良かったね。…と、やらなきゃいけない書類も片付いたし、その花を置く場所でも作ろうか。沙穂子ちゃんが決めるといいよ」

 柔らかな風を感じる。季節はもう春だ。

「文原先生。あの、好きです」

「…知っているよ」

 思わず「へへ」と声が出た。この言葉を返されたのは初めてだ。

「…マーガレットは、沙穂子ちゃんによく似合うね。長く持つといいのだけど」

「大丈夫ですよ、先生。あたしが沙穂子に世話の仕方とか教えますから」

「そうか。ありがとう、二人とも」

 すると、瑞希くんが先生の前にずい、と顔を出した。

「久野にマーガレットが似合うって…。先生、俺に相談してくれてもいいんですよ? …友達に花屋の息子がいるんです。だから、俺けっこう花言葉とか詳しいんだよ」

「へぇ、知らなかった。あんた意外とそういうところあるよね」

「運動音痴だったりとかね」

「そうそう」

 陽ちゃんとわたしではしゃいでいたので、しばらく気づかなかった。…文原先生が俯いている。

「先生?」

 顔を少し覗いてみると、ふんわりと赤くなっていた。

「先生!? どうしたんですか!?」

「ほっとけよ久野。…先生も人間ってことだ」

「…佐藤。お前は保健室出禁だ」

 先生がふらふらしながら言う。なんだか意味がわからないけれど、それ以上に楽しい気分だから、まあいいか。

「先生、好きです」

「はいはい。わかったよ」

 先生は心底めんどくさそうな顔をしている。まだ、顔は赤いままだけれど。


 陽ちゃんの園芸部は、夏になると野菜も収穫するらしい。

 文原先生と陽ちゃんと瑞希くんと、一緒に食べれたらいいなと思う。

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