第136話 西園寺刹那は楽しみにしている

 ずっと笑顔だったゆきなちゃんは、いつしか何かを切実に訴えるような表情をしている。


 俺は西園寺刹那や西園寺京子さん、そしておじさんとゆきなちゃんのことで話をしたことがまあまあある。


 なので、ゆきなちゃんが今までどんな道を歩んできたのか、その片鱗へんりんを垣間見ることができた。


 だが、ゆきなちゃんはどうだろう。名門大学を首席で卒業し、会社で短い期間働いてから、バイトをやっている一風変わった大人として認識しているのだろう。


 つまり、俺は自分がどんな人間なのか、そしてどんな人生を辿たどってきたのかは、全くと言ってもいいくらいこの子に言ってなかった。


 親しくなったら、きっと俺の暗い過去までされけ出されるのではないかと。そうなると、俺はまた逃げざるを得なくなるんじゃないかと。俺の心の中にあるドス黒い何かがささやいている気がするんだ。


 でも、俺はこの前、ゆきなちゃんと約束を交わした。もう君から逃げないと。


 俺はくちびるを噛み締めてから、しかめめっ面で口を開いた。


「ない」


 嘘を言って適当に誤魔化すのもできるんだが、この子はきっと気付くだろう。だから、ゆきなちゃんを傷つけないためには、本音と真実を言うより他ない。


「そうか」


 ゆきなちゃんはそう言ってから、数回うなずく。それから、表情がだんだん柔らかくなってくる。小学生5年生とは思えないほど大人びている。思わず、西園寺京子が俺に見せていた表情が思い浮かんでしまった。


 俺がこんなことを思っているのを知ってか知らずか、ゆきなちゃんは再び口を開く。


「一緒に旅行に行くのは、今回が初めてだね、へへ」


 と言ったゆきなちゃんは、にっこりと微笑みを浮かべている。


 この子のこういう顔を見ていると、胸のどこかが苦しい。まるで誰かが思いっきり締め付けているような、かといって、物理的な刺激とは程遠い謎の感覚。


 俺はなんとかこの痛みを抑えてから、ゆきなちゃんに返事する。


「まあ、そういうことになるね」


 俺の言葉を聞いたゆきなちゃんは、いきなり態度を変えて、あおるような口調で語り出す。


「お兄ちゃんは幸せ者だよ!」


「え?なんで?」


 戸惑う俺をもっと困らせると言わんばかりに、胸を張って自信満々に話す。


「だって、可愛くて綺麗な女二人連れて、誰もいない別荘でしけ込むわけでしょ?」


「お、おい!しけ込むって、一体どこでそんな言葉覚えたんだ?」


「テレビ番組でお笑い芸人がそう言ってた!」


「それは小学生が使っていい言葉じゃないから自重しろよ」


「へえ?そうなんだ」


 ゆきなちゃんは、ほえーと自分の頬に指を当てて考え考えしている。いや、別に考えなくてもいいから。


 全く油断も隙間もないな。


 間もなく食事が運ばれ、腹を満たした俺とゆきなちゃんは、例の如く、授業をした。


 ゆきなちゃんの飲み込みは早く、この調子なら、次のテストではもっといい成績を収めそうだ。


 授業が終わり、会計を済ませて、俺はゆきなちゃんを家まで送るべく、あのバカ高いタワーマンションのエントランス前にやってきた。


「んじゃ、気をつけて帰れよ」


「お兄ちゃんこそ、変な女から拉致らちられないように気をつけてね!」


「いや、拉致って、ていうかなんで女なんだ?」


 わけのわからんことを言ってくるゆきなちゃんに戸惑いつつ、返答を待つ俺。


「ふふっ、お兄ちゃんは鈍いからね」


「どういう意味だ?」


「なんでもないの」


「まあ、明日は朝早いから早く寝るんだぞ」


「うん!わかった」


「そんじゃ」


 ゆきなちゃんの元気あふれる返事を聞いた俺は、きびすを返そうとした。が、


「あ!お兄ちゃん!」


「うん?」


 また何か伝えたいことでもあるのか?俺は視線で続きを促すと、ゆきなちゃんは、笑顔で囁くように言葉を発する。


「お姉ちゃん、明日すごく楽しみにしているよ」


 西園寺刹那のことか。肌めっちゃ白いからインドア派だと思ったが、意外とアウトドアも好きだったりするのかな。


「まあ、旅行だしな」


 俺は無難な言葉を適当に口にしたが、ゆきなちゃんは不完全燃焼な表情をしている。


「お兄ちゃんと一緒だから楽しみにしているんだよ」


「はあ?」


「じゃ!お兄ちゃん!また明日!」


 ゆきなちゃんはそう言い捨てて、エントランスの中に足早あしばやに入っていった。


 俺と一緒だから楽しみか。


 USJでばったり出くわした、西山みたいな厄介で重いキャラよりは、道端で転がっている石ころの方がマシってわけか。


 石ころに関心を示すほど、世の中の人々は腐り切っているとでもいうのか。


 だったら、俺のやるべきことは決まっている。


 いつものみたいに、無害な石ころになり切ろう。


 そう決意をしてから、俺は家に帰った。



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