第85話 お兄ちゃん!

 着替えの準備と、お水やウェットティッシュといった必要品を小さなメンズバックに放り込んで、玄関に向かった。


 そしてドアを開く。


「お兄ちゃん!おはよう!」


 ゆきなちゃんは、照りつける太陽の光よりも明るい笑顔で俺に挨拶した。可愛い花がほどこされているオープンショルダーのブラウスに青色の無地スカート。普通に、ネットや雑誌のモデルと言っても誰もがなんの疑いもなく信じ込むほどのビジュアル。


 俺がゆきなちゃんの服装を吟味ぎんみしていたら、迷わずこの幼女は俺にダイビンする。

 

 俺の腹部に思いっきり自分の顔を擦り付けてくるゆきなちゃんを見下げると、実につややかな濡羽色ぬればいろの髪がサラサラ揺れ動いているのが見える。


 触ったら柔らかそうだな。ていうか、この間、飽きるほど触ったから、どれほど柔らかいかはすでに確認済みだ。


 そう、あれは、まるで産毛うぶげの子猫のような絶妙な触り心地で、一度その感覚を知ってしまったら、二度と戻ることができないほどの魔力を秘めている。


 というわけで、俺の手は、無意識のうちに、ゆきなちゃんの頭に向かっていた。そしてそっと手を頭上のおく。


 や、柔らかい。なんなら24時間でも触っていられる。癖毛くせげである俺の頭髪とうはつとはまるで違う。雲泥うんでいの差ってやつか。


 俺が十数秒間、ゆきなちゃんの柔らかい髪を堪能たんのうしていると、前から誰かが咳払いする音が聞こえた。俺は、なんぞやと、触る手を止めて、音のするところに、顔を動かす。すると、そこには、膝の少し下まで届く桜色のスカートに黒色の丸ネックの七分袖シャツ。首周りに露出ろしゅつが少し多めのため、白い鎖骨さこつが見え、それを高そうなネックレスが控えめに覆う。


 体全体は細いのに、メリハリのあるボディラインを見ると、多くの女が嫉妬しっとするだろう。本当に住む次元が違いすぎて、五十嵐麗奈の与えた任務なんか口にすることすらはばかれる。


 キスとか、まじ無理だろ。

 

 俺は心の中で、ハードルの高さにげんなりしていると、西園寺刹那は俺をにらみ始める。


 な、なんだ。別にキスとかそんなよこしまなことを口にした覚えはありませんよ? 


 俺は恐る恐る西園寺刹那をチラ見するが、当の本人はすごく不機嫌な様子でいらっしゃる。 


「よ、よ!おはよう」


 甘々モードのゆきなちゃんと、冷め切った氷の女王様モードを同時に展開している西園寺姉妹に恐れおののく俺は、なんとか雰囲気を変えるべく、西園寺刹那に挨拶をした。


「おはようございます」


 俺の挨拶にはちゃんと反応してくれるが、口調や態度は相変わらず冷たい。本当に、人の心や気持ちは分からんな。


「行こう!ふじにいちゃん!」


 すりすりを終えたゆきなちゃんは、元気いっぱいな表情で俺を見上げながら言った。


「あ、ああ行こうか」


 かくして、俺たちは、昭和時代に建てられたこの古いマンションを出た。


 ゆきなちゃんが真ん中、右に俺、左に西園寺刹那という感じで俺たちは、歩いている。でも、どこに向かっているんだろう。ここ電車と反対側なんですけど?


 俺は気になり、西園寺刹那に問うた。


「西園寺、俺たちどこ行ってるの?」


 俺は首だけ動かして、西園寺刹那を見たが、彼女はこっちを向くそぶりを一切見せずに、口だけ開いた。


「駐車場です」


「あ、うん」


 そういえば、いつもここ来る時、自家用車でくるんだったよな?そう考えると、西園寺刹那も律儀りちぎだな。自分の妹の安全のために、週3回もこんな辺鄙へんぴなところまで来るとは。


 俺たちが数分ほど歩くと、駐車場が見えてきた。一応俺も免許は持っているけど、今まで車とは全く縁のない生活をしてきた俺は、大人しく、西園寺刹那の3歩後ろを歩いた。大和撫子やまとなでしこかよ。


 やがて西園寺姉妹は、いかにも高そうな外車のところに行くと、鍵をして、車のドアを開けた。


 だ、大学生が、それも綺麗な女の子がBMWのSUVを運転するなんて……


「藤本さん?乗らないんですか?」


 俺はあまりにもシュールな光景に体が強張こわばったまま、戦慄せんりつの眼差しで西園寺刹那を見つめたが、彼女は、俺の気持ちなんか梅雨知らず、淡々たんたんと聞いてきた。


「あ、ごめん。今行く」


 西園寺刹那の冷静な声音こわねのおかげでようやく我に返ることが出来た俺は歩き、後ろの座席に座った。


 運転席には西園寺刹那、助手席にはゆきなちゃん。そして、俺は広々とした後部座席に。


「レッツゴー!」


「ゆきなちゃんはしゃぎすぎ」


「だって、ずっと楽しみだったもん!お姉ちゃんもでしょ?」


「い、いや。私は別に…」


うそはよろしくないよ。お兄ちゃんに綺麗な姿見せるために、服屋何軒もまわ、ぶ、ぶうう」


「こ、この子は、い、一体何を言ってるのかしら!」


 エンジンをかけようとした西園寺刹那は大慌てで、自分の手でゆきなちゃんの口を封印ふういんした。


「う、ヴうう」


 ゆきなちゃんがすごく苦しそうですけど?いかん。俺はゆきなちゃんの家庭教師だ。どれくらい給料もらえるかはさっぱり分からんが、ここはひつと助けてやるのが、教師としての勤めというヤツだろう。助けるついでに、気になることでも聞いておこう。


「ゆきなちゃん」


 取り込み中だった二人は、俺の声が聞こえると、ピタッと動きを止めて、一斉いっせいに俺に視線を送った。予想通りにやめてくれただ。


 俺は満足げなドヤ顔を決めてから、気になることを聞く。


「俺の呼び名がふじにいちゃんから、お兄ちゃんに変わったね」


 俺の問いに、ゆきなちゃんは、しばし目をしばたたかせる。それから、思いっきり満面の笑みを浮かべて、口を開いた。


「そう!刹那お姉ちゃんをお姉ちゃんと呼んでるから、ふじにいちゃんもこれからお兄ちゃんって呼ぶことにした!血は繋がってないけど、ふじにいちゃんは私のお兄ちゃんだよ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る