青山かほとのデート編

第46話 藤本悠太の考える「遊び」

 遊び。

 

 人はこの言葉にワクワクしたり、心踊らされるものだ。子供にとっても、水遊びやボール遊びというキーワードは、義務教育からもたらされるストレスの捌け口になり得るとも言える。

 

 大人になっても、「どっか遊びに行こうか?」という言葉にいちいち高揚感を覚えて、時間さえあれば、段取りを決めるのは自然の流れだ。


 つまり、老若男女問わず、「遊び」という単語は世間一般的にはポジティブな意味合いを持っている単語の一つだ。


 そう。人は、総じて、言葉のおもてだけに焦点を当てる嫌いがあるのだ。かくいう俺はどうだろう。少なくとも、肯定的に物事を捉えることはまずないな。

 

 「明るい人」は、裏を返せば、何やらされても弱音吐かない奴隷に向いているチョロい人。

 

 「慎重な人」は、何やるにしても責任を取りたくないから、あれこれ文句ばかりつけて逃げようとするこすっからい思考回路の持ち主。 


 「肯定的な人」はさらにタチが悪い。全ての意見を肯定というパンドラの箱にぶち込んで、なんでもかんでも事あるごとに、君ならできるとか、期待しているよとか、自分の都合のいい事しか言わない。ああいう輩の頭には否定という概念は存在しないため、もし、失敗して期待を裏切ったら、顔色を変えて、一瞬の迷いもなく人の人格を貶す。あ、因みに、こと本人の失敗に関しては甘すぎるから注意しておいた方がいいよ。


 上掲のように、一見良さそうに感じる言葉ひとつとっても、深入りするとロクなものがない。

 

 遊びもそうだ。

 

 「私とは今まで遊びだったの?」とか「へい、お嬢ちゃん!俺たちと遊ばなーい?」とか。


 要するに、自分のとっては、遊びのつもりだけど、相手にしてみれば不愉快極まりないゲスの行動に過ぎないのだ。


 イジメだってそう。人を殴って傷つけるという行為を彼らは「遊び」と呼ぶ。もし、いじめがバレて取調べを受けるとなると、彼らはきっと「これは、遊びですよ。あの子もきっと楽しんだに違いないですよ」とほざくだろう。これを一言で要約すれば、ダブルスタンダードによる認識の相違


 俺は以前、虐められる側と虐める側を古代ローマ帝国のコロッセウムにおける娯楽に例えた。餌を与えていない獅子と奴隷を戦わせる。それを見て観客は喜ぶ。つまり、奴隷=昔の俺で、観客=虐める側の法則が成立する。昔の俺に取っては地獄のような毎日を、いじめる側の彼らは単なる「遊び」として捉えたのだろう。でも、俺がもし、彼らの家族に同じことをして、彼らが大切にするものに傷を負わせたら、どのような反応を示すのだろう。おそらく、正気を失った獣のように、報復をしようと企むだろう。


 つまり、自分がやる分には全然良くて、弱い人がやるのはNGというわけだ。でも、六法全書をいくら読み漁っても、そういう法律は存在しない。


 所詮、彼らの持っているダブルスタンダードなるものは、法的根拠などはこれっぽちもない。自分はなんの対価を払わず、他の命を勝手に傷つけたいと言いたいだけ。


 おっと、話がだいぶ脱線したようだが、要するに「遊び」というのは、我々が思うほど、いい単語ではないということだ。


 だから、今日の青山かほとの遊びもきっとろくなものではないに違いない。普段は見向きもしてなかったのに、いきなり絡んできて、遊ぶという約束まで交わした。


 ひょっとして、西園寺姉妹が俺の働くコンビニに強引に押しかけたのと関係があったりするのかな。


 確かに、あの出来事以来、青山かほは俺に頻繁に突っ込んでくるようになった。でも、まだ判断材料は足りない。結論を出すのはまだだ。


 まあ、今のところは何考えても時間の無駄ってことだ。だから、早く起きて朝ごはん食べよう。

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