第43話 藤本悠太の人生に「期待」という単語はない

 再度静まり返る我が部屋。けど、最初のような緊張感は見受けられない。さっきのアクシデントによって、均衡を保っていた雰囲気は一気に崩れ去り、今となっては、俺と西園寺せつなは身を捩って互いの顔色を伺っている。なんで俺は、自分の部屋にいながらこんな気まずさを感じないといけないんだ?


 ふと問題の原因とも言える張本人をチラッと見てみるが、まるで何事もなかったかのように算数の教科書を読んでいる。以前から気にかけてはいたが、この子は危ない。幼いからといって、警戒を緩めてはならないのだ。俺の頭の中で、数万の考えがよぎる中、若干興奮気味の西園寺せつなが口を開く。


「普通に勉強しているゆきなちゃんは初めてみるから」


 西園寺せつなはゆきなちゃんを見ながら言った。まだ顔は火照っていて、赤みがかっている。


「へえ、そんなに勉強したがらなかったんだ」


 ギクシャクした雰囲気をなんとか鎮静化させんがために、俺も付け足した。


「そうなんですよ!この子ったらいくら勉強させてようとしても、逃げるし、ボーとするし、全然集中しないしで本当に大変でしたよ!2年前から!」


「お、おう。2年前ね」


 勢いよく捲し立てる西園寺せつなに俺は圧倒されてしまう。相変わらず、西園寺せつなの上半身は上気していて、全体的に桜色だ。


 いかん。さっきの事故(ご褒美)のせいで、西園寺せつなの胸あたりに視線が引き寄せられてしまいそうだ。

 

 でも大丈夫。俺は現実を知るべきだ。理性が吹っ飛んでしまいそうな時には、今俺に置かれている現状やバックグラウンドなどを思い浮かべるとどういうわけか、頭が冴える。俺はあぶれものだ。


 と、やっと我に返ることができた俺は、ゴクリと生唾を飲んでから口を開く。


「でも、ゆきなちゃんもゆきなちゃんなりに何かを決心したりしたんじゃないの?よく分からないけど」


「へえ、そうですか」


 疑り深い目と怪訝そうな表情。西園寺せつなは、俺の言葉にどうやら疑問を抱いているみたいだ。それもそのはず。2年という間、勉強には見向きもしてこなかった問題児が、突然一人でやるって言い出すのは普通に考えてもありえない話だ。俺を睨んでいる彼女は、おそらくそれが気になっているのだろう。でも、口外は禁物だ。ゆきなちゃんと約束を交わした手前、ここは穏便にやり過ごすのが吉だろう。しかし、西園寺せつなの睨む表情は苦だな。


 沈黙の織りなす力は凄まじく、数多の思惑が交差する俺の部屋も、数分、数十分も時間が過ぎたら、憂いも疑念も鬱憤も忘れ去られ、自分のやるべきことに専念するようになるものだ。忘れるというより、一時的に保留する休戦状態に近いか。


 とまれかくまれ、授業の方はうまくいっている。今日は算数と国語を教える予定で、ゆきなちゃんは、教科書をちゃんと読んで、分からないところがあれば、質問をし、俺はそれに答える。至ってシンプルな教え方ではあるが、この子にとっては、これが一番効率がいいだろう。でも、2年間勉強をやってこなかったから、その穴を埋めるのは一筋縄ではいかないとは思う。だが、じっくり時間をかけたらできなくはない。西園寺せつながチラチラと俺たちを見るのは少し気になるけど、とにかくこのままだと、いいスタートを切ることができそう。


「とま、今日はこんな感じだな。金曜日は理科と社会だから、教科書持ってくるんだぞ」


「はーい」


 時刻は20時を過ぎている。切り上げてもいいタイミングだろう。西園寺せつなは依然として冴えない顔をしながら、ノートパソコンをしまう。ゆきなちゃんは、2年ぶりの勉強で気疲れでもしたのか、伸びをしてから口を大きく開けてあくびをした。

 頑張った者にはそれ相応の対価を与える必要がある。世の中は頑張っても、既得権益が全てを根こそぎ持っていくシステムになっているのだが、ここは社会におけるあぶれ者の家。


「水でも飲むか」


「うん!」


「西園寺は?」


「は、はい!お願いします!」


 俺は二人からの返信を聞くが早いが、キッチンにいって、キンキンに冷えた布引の水をコップ二つに注いだ。それからそれを素早く運んで二人に渡すと、二人とも、うんくうんくと勢よく飲み干した。


「きゃあ冷たい〜」


「冷たくて気持ちいいですね」


 神戸の名物、布引の水にご満足いただいたご様子で何より。


 水を飲んだ二人は、そのまま立ち上がり、カバンや各々の荷物を持って玄関へと向かう。


「ふじにいちゃん!金曜日もよろしくね!」


「おう。よろしくな」


「今日は本当にありがとうございました!おかげさまでゆきなちゃんも勉強ができたし」


「いや、ゆきなちゃんが自分でやったんだし、俺は別に大したことはしてない」


「本当ですか?」


 またぞろ、西園寺せつなは疑り深い目つきで俺を見つめた。俺は思わず、目を逸らしてしまった。この流れだと根掘り葉掘り聞いてくるパターンだな。しかし、俺の不安は杞憂きゆうに過ぎず、それ以上切り込むことはしない。疑りに満ちた表情は次第に柔和な面持ちへと変わり、笑みを湛えて俺を真っ直ぐ見ている。目を逸らしていた俺も、その視線に気づき、再び彼女のほうを向いた。


「これからもよろしくお願いしますね」


 彼女の魅せる満面の笑みは重力のように、見るものを引き寄せる力が込められているようだ。


「こちらこそ」


 だから、俺たちは釣り合わない。釣り合うどころか、俺は比較の対象にすらならない小さな石ころ。そのことを忘れてはならない。俺の人生に「期待」という単語は存在しないのだ。

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