第25話 許諾
俺を思いっきり抱きついて、ひとしきりすりすりしたゆきなちゃんは納得顔でうんうん言ってから、自分の居場所戻って残りのご飯を食した。
凍りついた雰囲気はいつしか弛緩して、前のような殺伐とした感じは探しても見当たらない。西園寺せつなに至っては、一口食べては手を頬に当てて至福の顔になっている。そんなに美味しいのかよ。
赤の他人と食卓を囲むのはやはり慣れないな。そう思いながら俺も咀嚼を止めない。しばし平穏が続いた。
「ご馳走様でした」
「美味しかった!」
西園寺姉妹はほぼ同時に食事を終えると、すでに食べ終わってぼーとしている俺に向かって感謝の言葉を伝えた。
「お粗末様でした」
俺は小声でボソッと言って後片付けを開始しようとする。しかし、西園寺せつなは俺を怪訝そうな顔でジト目を向けると、やがて片手をブンブン振りながら話を始める。
「後片付けつは私がしますよ」
「え?でも」
「いいえ、こんなにご馳走になったのに、何もしないのはやっぱり申し訳ないんですよ」
俺はいいよと何回も断るが、彼女はこればかりは譲らんとばかりに俺の動きを阻止して皿を持って立ち去ろうとする。
「じゃ、キッチン借りますよ」
「お、おう。お好きにどうぞ」
お客が来たら普通、皿洗いさせたりはしないだろう。これでいいのだろうか。あ、待ってよ。こいつらは客じゃなかったよな。勝手に俺んちに押しかけて上がりこんだストーカーだ。でも、なぜか怒る気にはならない。元々俺は怒らない人間だ。いじめを受けた時も、理不尽な要求を突きつけられた時も、俺は怒りをあらわにしない。そもそも、俺は他人に対して怒れる勇気があるのだろうか。本音さえもろくに言えないのに。
難しい顔であれこれ考えているうちに、西園寺せつながキッチンで皿洗いをしている音が聞こえてきた。我に返った俺は、タンスをあけ、中の本棚から本一冊を取る。再び席に戻ってそれを読んでいると、ゆきなちゃんは前のめり気味に、目をキラキラさせながら問うてきた。
「ふじにいちゃん、今読んでいる本なに?」
「これはプログラミングに関する本だ」
「何だか英語ばっか書いてあるから難しそう」
「まあ、海外書籍だからな」
「英語読めるんだ。すごい、」
ゆきなちゃんは、おおとかほおとかわけのわからん感嘆詞を連発して俺の隣に腰掛けた。お願いだから邪魔だけしないでくれよ。
最近は日本でも素晴らしいプログラミングの書籍がいっぱい出回っているけど、やっぱりアメリカや英語圏の国の書籍と比べれば多少なりとも見劣りしてしまう。俺はもっと捻まくった論点に興味があるのだが、日本で発売されるプログラミング本は初心者向けが多いから、物足りないところが多々あるのだ。
しばらくの間、本を読み耽ると、キッチンからドアを開ける音がしてきた。
「皿洗い終わりましたよ」
「ありがとう」
俺は読んでいるところに栞を挟み込み、テーブルの上にそっと本を載せてから返事をした。
さて、ご飯も食べたことだし、普通の流れだと、ここらへんでおいとまするのが常識だろう。だよね?俺に常識を求めんな。
戻ってきた西園寺せつなは席に座り、俺をチラチラと横目で見ている。そして肩をすくめて遠慮がちな表情で口を開いた。
「あの、昨日の話なんですけど」
「昨日?」
昨日は話らしい話を交わした覚えはないんだけど、一体何をさしているのだろう。と、視線だけで話の続きを促すと、彼女は何だかすげー言いづらそうな顔をで言葉を発する。
「家庭教師の件」
「あ、それか」
いきなりこの姉妹のお父さんから、ものすごく上から目線で言われた例のあれだ。何の脈略もなく言われたものだから、あの時は面食らったけと、今は冷静な知性に基づいて、答えることができる。唇を震わせながら焦っている様子を呈している西園寺せつなと、期待に満ちたキラキラな目でこっちを見ているゆきなちゃんを交互に見ながら俺は言う。
「俺は人を教えたこともないし、別に俺より優れている人は掃いて捨てるほどいるだろ」
「いいえ。今まで塾にも通わせたし、優秀な家庭教師にも頼んでみたんですけど、成績は全くと言ってもいいくらい上がらなくて…」
俺がいうが早いが、西園寺せつなは反論した。でも、後に行くにつれ、音が小さく聞こえる。話を終えると、人差し指を合わせて身を捩る西園寺せつな。妹の恥ずかしいところを打ち明けたのが恥ずかしいらしい。それに引き換え、ゆきなちゃんときたら、でへへっとおおらかな笑みを浮かべている。いや、お前の話だぞ。
つまり、西園寺せつなとおじさんは、藁にもすがる思いで俺に家庭教師を頼んだということか。誰もやらない或いは、失敗した茨の道を歩ませようとしているのか。
誰も期待はしないし、ほんの些細な失敗をしたとしても、それを取り上げて喜びながら俺に破滅の言葉を浴びせることもない。もし、俺がつまづいたら、精神が破壊される前に、また逃げればいいだけの話。
それに、この目の前にいる西園寺姉妹は俺を決して逃がしてはくれない。と、柄にもなくそういう気がしてきた。理由はわからない。俺と交わりを持つ理由。
俺はふーと長いため息をつく。それを否定的に捉えたのか、姉妹は次第に暗い表情になった。ゆきなちゃんに至ってはウルウルと目を潤ませている。
「あんまり期待はしないでくれよ。期待しても裏切られるぞ。まあ、俺なんかでいいなら別にいいけど」
「え?ほ、本当になってくれるんですか?」
「ああ、まあ。コンビニのバイトがあるから、しょっちゅうやるのは無理だけど」
俺が頭をくしゃくしゃしながら言うと、ゆきなちゃんは口をポカンと開けて、お姉さんと俺を交互に見る。今の状況にまだ頭が追いついていないような。
数秒が経ってようやく今のシチュエーションを理解したらしく、いきなり笑顔で俺にダッシュ。
「うわ!ありがとう。これからもよろしくね!」
「おい、だから、いきなり抱きついちゃだめっあっ」
俺の必死な抵抗も虚しく、すりすりをやめないゆきなちゃん。俺はまたもやこの小動物じみた可愛い幼女の姉に向けて救いを求めるが、さっきと同じく超納得顔でうんうん言いながら、この光景をただ眺めるだけだった。なに勝手に納得してんの。てかこれ解いてくれよ。
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