第16話 交流という名の試練が始まる③

 エレベーターから降りて歩く事数十秒。一流のホテルを彷彿とさせる通路を歩かされ、やがて前を歩いている西園寺せつなは、ある玄関ドアにピタッと止まった。それに釣られる形で俺も足を止める。どうやらここが西園寺家が住んでいる号室らしい。

 深く息を吸う彼女は徐に手をドアノブの近くにかざした。


「指紋認証が完了しました。ロックが解除されます」


 軽快な自動音声が流れ、西園寺せつなはそれを確認してからドアを引いて俺に向き直った。


「中へどうぞ」


 すげえな指紋認証。鍵なんか要らないし、登録さえしておけば自分自身が歩く鍵のようになるのか。日本は世界と比べてデジタル化が遅れていると聞くが、ここはそんな批判なんか軽く反駁できるほどの光景を呈していた。


「は、はい。お邪魔します」


 俺は慣れない環境におっかなびっくりしながら西園寺せつなに従って中へと入る。


「ただいま戻りました」


 帰りを知らせる彼女の言葉に早速食いつく存在が現れた。


 だだだっ


 小動物が走るかのような足音を立てて誰かが小走りに駆け寄る。やがてその存在は勢いよく俺にダイビング。


「ふじにいちゃんだ!こんばんは!」


 元気溌溂な笑顔を浮かべて、さらに俺のお腹に自分の頭をぐりぐり擦り付ける。お、おい。いきなり何すんの。や、やめん、やめんかこら。


「ゆきなちゃん。ダメだよ。ほら、藤本さんが迷惑しちゃうじゃない!」


 困惑している俺の気持ちを察した西園寺せつなは、ゆきなちゃんを引っぺがす。それからすかさず優しいゲンコツを食らわした。ゆきなちゃんは頭をさすって「ごめんなさい」と小声で漏らすが、目は相変わらず笑っている。笑いながらこっちみんなよ。ちっとも反省なんかしてないだろ君。やはり子供は苦手だ。


 初っ端から心底疲れる展開尽くしで暗い表情をしていると、もう一人の存在が現れる。


「あら、君が藤本悠太くん?娘たちがいつもお世話になってます。母の西園寺京子です」


 にこぱっと満面に笑みを浮かべて俺たちを優しい目で見ているのはこの西園寺姉妹の母か。


 第一印象を一言でいうと「上品」。むしろ上品という言葉しか出てこない。しかも2人の女の子を産んだとは思えないほどの美貌と体つき。メリハリのある体つきなのに贅肉など一点も見つけられない。女優じみている整った目鼻立ちは、彼女らの世界に踏み込む事を許さないとでも言わんばかりな空気を漂わせている。恐らく西園寺せつなが歳をとるとこういう風に今の若さとは一味変わった熟した艶やかな美を醸し出すようになるのではないだろうか。普通の私服姿にエプロンを着ているだけなのに、隠しきれないオーラがあるようだ。


「どうも、初めまして。藤本悠太です」


 短く挨拶を済ますと、西園寺京子さんは中へ入るようにチョイチョイと手招く。すると、ゆきなちゃんが「はーい」と欠伸にも似た返事をしてぴょこぴょことウサギのような歩き方で奥に入る。西園寺せつなは微苦笑交じりにため息を吐くと「行きましょうか」と俺に軽い口調で言った。無論、俺も断る理由がないので一緒に香ばしい肉の焼ける匂いがする奥へ入った。


 中に入ると、まず広々としたリビングが見える、前面はガラス張りになっていて、六甲山含む様々な建物や風景が見渡せるようになっていた。展望台なんか行く必要性皆無だなこれは。


 俺がポカンと口を開けて部屋を見ていると、リビングの皮張りソファーに静かに座っている1人の男性が見てとれる。


 落ち着いた印象ながら精悍な顔からは全てを凍りつかせるほどの威厳が感じられる。オフィスカジュアルっぽい服装をしており、難しそうな本を読んでいる。彼の動き一つ一つに深い意味を孕んでいそうだ。中年男性向けの雑誌の表紙に載るような容姿の彼は、疑うまでもない。西園寺家の大黒柱、お父さんだろう。

 

 ずっと本を読んでいた彼は、この場において相応しくない異物である俺の存在に気がついたらしく、ページを繰るのをやめて本をテーブルに置いてから、俺に視線を向ける。


「君が藤本悠太くんか」


 まるで尋問でもするかのような目つきで俺を睨め付けてくる。しかし、俺は怖気付いたりはしない。なぜなら素敵なディナーが終われば、この胡散臭くて分厚い仮面を何枚も被せたような人たちと二度と関わる事がなくなるという事をよく知っているから。


 俺は当事者なんかじゃない。あくまで第三者だ。故に食事会を、西園寺家の人々を遠く離れたところから観測しよう。理性という強い武器をもってな。


 俺は冷め切った目つきでこのおじさんを睨みつけた。俺の目線には憤怒も怒りも復讐心に満ちた負の感情もなく、ただただなんの色もない無機質な虚無があるのみだった。


「はい。そうです」


 俺は短い言葉で返した。彼は一瞬、俺の顔を見て何かを思い出しでもしたのか、目を見開いて口をポカンを開ける。俺はそれをものともせずに、食卓に行って買ってきた果物を置いた。すると、さっきの威厳が嘘のように感じるほどの声音が漏れ聞こえる。


「ゆきなを救ってくれて本当にありがとう」


 振り向くと、西園寺姉妹のお父さんは頭を深く下げてそう言い放った。


 実に頬が緩むほどの良いエピソードだ。心温まるいい話だ。誰もがそう思うだろう。でも登場人物までもそう思うのだろうか。俺はそう思わない。なぜなら、首を垂れているこの男を見ている俺の中には、えも言われぬ怒りが沸き立っているから。さっきまでは平静を保っていた俺の自我はいつのまにか理由のない憤怒に変わってしまっていた。理性という器から漏洩したドス黒い何かが俺の血肉を蝕む気持ち悪さとともに。


 俺は社交辞令じみたセリフを吐く余裕もなかった。喉につっかえる蟠りを不快に思いながら言えるのはただ一言。


「はい」

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