第4話 臆病者の決断


「火事?」


 あまりにも想定外の事態に、あたりにどよめきが起きた。俺が顔を顰めながら駅と繋がっている階段を見ると、プラスチックの燃えるくさい匂いと黒い煙が外へと流れてくることが確認できた。


「皆さんここから離れてください!」


 駅の職員と思しき数人が足早にやってきて人々に避難を誘導している。まだ救急車のサイレンはなってないことから察するに火事が起きてからあまり時間がたっていないようだ。


「おい君も早く逃げるんだ!」


 駅の職員のうち一人が俺に切羽詰まった声音で言った。しかし、俺は動く気にはなれなかった。俺に話しかけてた職員はため息を吐いてから他の人々のところに行った。


 煙と匂いは刻一刻と勢力を増し、周りの建物を飲み込まんとばかりに広まっていく。


 俺は立ったまま慌てふためく人々の姿を観察してみることにした。


 鞄を抱えて必死に走り出す中年サラリーマン。手を取って走ってゆく男女の姿。特にあの男は女を助けながらちらっと胸やお尻を触っている。緊急事態にも自分の欲求を満たそうとするのか。あとは、子供を抱えて全力でダッシュする女性。十人十色という言葉があるようにそれぞれ容姿の違う人たちが恐怖に怯えながら駅と繋がっている階段からでてくる。


 なんであんなに必死になれるのか。俺にはまったくわからなかった。生き延びて一体何をするのだろうか。


 さっき見た中年サラリーマンは部下の手柄を自分のモノにして責任は他人に押し付けて自分だけいい思いをするためにあんな必死に生き延びようとしたのか。助けるふりをしながらセクハラをした男は、この後、女に色んな性的な事を求めてくるであろう。子供を抱えている女性は、他人のこどもを蹴落として自分の子供だけ甘い汁を吸わせようとしているだろう。そうでないと、彼ら彼女らはなんであんなに必死になっているか説明がつかない。


 失いたくないものがあるから。それは他人の物を奪ったり、反逆したり、騙したりすることによって得られる快感。麻薬のように人の大脳皮質に刺激を与え、依存せざるを得なくなるまでに人を誘惑する悪だと俺は思う。


 しかし俺は決してあの逃げる群れを嘲笑ったりはしまい。もともと人間はそういうモノなんだから。そういう本能が遺伝子レベルで組み込まれているから。


 同情もしない。かといって「ザマ見ろ」と誹謗中傷を飛ばしたりもしない。ただ単に見るだけ。そして自分の過去や読書によって得られた知識で分析し納得し得る結論を導き出す。それこそが内輪に入っていないものの特権だ。


 狂気の坩堝と化した三ノ宮駅周辺を凍てついた瞳で見回して家へと帰ろうとした。


「嬢ちゃんダメだよ!あの中は危険だから!」


「妹が、、ゆきなちゃんがまだ電車の中に残っていますよ!」


「あとで救急車が来るからそれまでに待ってくれ!」


「一刻も早くゆきなちゃんのところにいかにとダメです!止めないでください!」


 俺の横で駅の職員と女の子が押し問答を繰り広げている。女の子は躍起になって自分の主張を通そうとするが、なかなか受け入れてくれない。彼女を阻止している職員の判断は妥当だ。色濃い黒い煙はだんだん量が増えているし、炎も見えてきている。か弱い女の子があんなところに突っ込んだら命が100個あっても足りないだろう。だから救急隊員に任せる。合理的な選択だ。しかし、あのゆきなちゃんという女の子が死ぬ確率は時間が経つにつれて増加する。


 だったら取るべき行動は一つ。


「俺は臆病者だけど、命くらいはかけるよ」


 そう小声で呟いた後、鞄に入れてあるペットボトルを手に取り俺にぶっかけてびしょぬれにした。そしてマスクを着用し、火と煙の発生源目掛けて突撃。


「お、おい君何している?」


「危ないから行くんじゃんねぞ!」


 後ろから駅の従業員の声が聞こえるが、そんなのはどうでもいい。


 こんな機会が訪れるなんて。俺は恵まれた奴だ。

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