第212話 幸甚な日々の一枚
十一月十五日、金曜日。今日は彼女の実家に来ている。
市長業が忙しく家事が儘ならないらしいので、草刈りや畑の世話、掃除に洗濯と忙しなく動いている。
ふと室内のカレンダーが目について……今日の日付には赤い丸が印されていた。私達が来る日だからだろうと思いそのまま過ごし、粗方仕事を終えた午後四時半。
綺麗になった畑を見ていると独特な鳴き声と共に現れた一匹の
初めて見た時は叫び彼女に抱きついてしまったけれど……まぁ、こうして遠くで見ている分には綺麗なのかもしれない。
なんて思っていると……低空飛行で私の方へ雉が飛んできた。気持ち悪くて直視出来ないけど多分近くで羽ばたいている。
「イヤーーッ!!!!!」
私の叫びに反応した彼女は裸足のまま駆け付け……巨大な虫取り網のような物で雉を叩きつけ網の中へ。バサバサと暴れる雉が怖くて、涙目で彼女にしがみついた。
「雫……」
「大丈夫です、私がいますから。怖かったですよね? よしよし……」
優しく頭を撫でられ落ち着きを取り戻すと……彼女は雉の方へと向かい何か作業をし始めた。
「雫……何してるの……?」
「〆てます」
十一月十五日、金曜日。
今日は雉狩猟解禁日。
その光景は記憶が飛び飛びになるくらい衝撃的で……沸いた大きな寸胴鍋の中へ頭の無い緑色の物体を入れた所で立ち眩み。
倒れそうな所を、仕事から帰ってきたお父さんに支えられた。
「一体何事だ……?」
「……お帰りなさい。雫が雉を捕まえたんですけど…………」
お父さんは顔ごと背ける私の頭を掴んで彼女の方へと無理やり向けさせた。
「ちゃんと見ていなさい。大切な事だ」
生きていく上で……ただそれだけの意味だと思っていたけれど、茹だった雉の羽を少し嬉しそうな顔で毟る彼女を見て、背けちゃいけないことだと理解する。
「……雫はこういうの慣れてるの?」
「いえ……高校を卒業して直ぐに網猟免許を取得しまして……その、母が……雉料理が好きだったので…………母がいないから意味は無いとは思っているのですが……その……雉料理は身体にもいいですし…………」
彼女の動かす手が少しずつ鈍くなり、涙声に変わっていく。
堪らず隣に駆け寄って肩を抱き……彼女の手元に苦笑い。
「……ふふっ、近くだともっと気持ち悪いや」
「み、見ないほうがいいですよ? 私が好きでやっていることなので……」
「うん。私も好きだから隣にいるの」
暫くして……お父さんが一冊のノートを持ってきた。付箋がしてあり、ぶっきらぼうにそれを私に渡してくれた。
「……手記だ。読んだら直ぐに返しなさい」
付箋の頁を捲り……彼女は手を止め隣で覗き込む。背伸びするその姿が愛しくて、頬にキスをしてノートを持つ手を低くした。
【2007年11月15日 鉄砲で雉を狩る。家に持ち帰ると晴の悲鳴が響き渡り、雫が駆け寄ってきた。首を落とし茹でて毛を毟っていると、晴が恐る恐る私の隣へやってきた。何故そんなことをしているのかと聞いてきたが、キミの為とは言葉に出来ず、身体に良いとしか言えなかった。中抜作業も、私の服を掴みながら懸命に見続けてくれる。料理は得意ではないが、知人の猟師から聞いている通りの手順で雉鍋を作った。一口食べた時の晴の顔は忘れない。来週晴の検査入院があるので、前日にまた雉を狩ることに決めた。少しでも気が楽になればと願う。次回は雫が料理を手伝うと張り切っている。幸甚な一日、忘れないようカレンダーに印を付けておく】
彼女は何度も頷きながら、大粒の涙を止め処なく流している。
自然と次の頁を捲ろうとして強めのデコピンをもらい……ノートと交換に、手のひらサイズのメモ帳を渡された。
開くとギッシリと細かく書かれた雉鍋のレシピと……その反対側には、幼い頃の彼女と母がコタツに入りながら雉鍋を食べている写真が貼られてあった。
当たり前に存在したその幸甚な日々の一枚に……涙が止まらなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「出来ました。晴さん、味見してください」
「めっちゃいい匂い……いただきまーす」
初めて食べる雉鍋。雉のガラから取った旨味が凝縮された濃厚なスープに……一瞬、時が止まる。
「……………………美味しい。ふふっ、言葉にならないくらい美味しい」
私を見た彼女は食べた私よりも幸せな顔をして……隣で腕を組むお父さんも、優しく微笑んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
「おーっす、彩ちゃんだよー。なんで二人がいるの?」
「彩さん? わぁ、いらっしゃい。遠くまで大変でしたね。今お茶を淹れますから──」
こたつの上に鍋を置き、いざ囲もうと思っていた矢先……妹の彩がやってきた。聞けば、電話越しでも疲れていたお父さんの為に週末サプライズで来たらしい。
当の本人は“連絡くらい入れなさい”と言いながらも喜んでいる様子。
「めっちゃいい匂いするじゃん。なにこれ? 何の鍋?」
「雉鍋。雫が捕まえたんだよ」
「へぇ……ってことは猟の免許持ってるんだ。凄いね雫は。頑張ったね」
そう言って雫の頭を撫でる彩。
母の為に……思い残して取った免許かもしれないけれど、その意味は廻り繋がり、ここに存在している。
私には出せない彩の真っ直ぐな温かさに解かされ、彼女は頷きながらまた涙を流していた。
「へへっ、泣いてる雫も可愛いや。私パパの横ね。皆んなの分よそってあげる」
少ししんみりしていた空気を、良い意味で吹き飛ばしてくれる彩の明るさ。
そんな彩は、面白がってお父さんに世話を焼き食べさせている。
「ねぇパパ、味はどう?」
「その……美味しいな」
「そしたら今度は私に食べさせて? あーん」
「彩、迷惑だからやめなさい」
「いいじゃん。家族皆んなで食べるから美味しいんだよ。ね、パパ?」
「…………あぁ、そう思うよ。よく噛んで食べなさい」
雫は父親似、なんて生前母から言われていたらしいけど……ホント、似ても似つかない筈なのにそっくりなその姿に、私も雫も思わず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
「これが最後の一杯ですね。まだ食べられる方いますか?」
「食べたいかも。彩は?」
「食べるー。美味しすぎて足りないや」
「ふふっ、この後は雑炊にしましょうか。また…………また、捕まえますからね」
その光景を、お父さんはこっそりとスマホで撮っていた。あまりにも……幸せそうな顔をしているから、何も言わず気が付かないフリをした。
その幸甚な日々の一枚は、お父さんのスマホの待ち受け画面で今日も輝いている。
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