第211話 畢生のバッテリー


 紅灯緑酒こうとうりょくしゅなおまち横浜。

 その中でも一際熱気を帯びているのは、今私がいるここ横浜スタジアム。

 今日はプロ野球の日本一を決める試合がここで行われ……横浜を本拠地に持つチームが参加しているそうです。


「雨谷さん野球とか見るタイプ?」


「いえ、恥ずかしながら初めてです。一応ルールは確認してきましたが……」


 晴さんのマネージャーである栞さんと、専属ヘアスタイリストの葵さんと共に観戦中です。


「葵、アンタやけに不機嫌だけどなんで?」

「私阪神ファンだからつまんなーい」

「そういえばアンタ珍カスだっけ。三位に負けてどんな気分?」

「シ、シオちんだって虚カスのくせにCSで負けてるじゃん!」

「セで優勝したからいいのよ」


 私の知らない野球用語?で会話が弾む二人。

 野球観戦はビールを飲まなければいけないルールだと栞さんに教わったので……ちびちびと飲みながら待っていると、地鳴りのような拍手と共に盛り上がるスタジアム。

 大歓声の中マウンドへ上がったのは、白と青のユニフォームを纏った……私の晴さん。

 横浜といえば日向晴と呼ばれるほどで、晴さんはここ横浜では象徴的な存在だそうです。

 優勝が決まる大一番。その試合の始球式なるものに晴さんは抜擢されました。


「いつも近くにいるから忘れちゃうけど……やっぱりヒナちゃんって凄いよね」

「まぁ……特にここはあの子のホームグラウンドだから。この街じゃヒナのこと嫌いな人なんていないでしょ」


 以前テレビ番組で見た街角アンケート。

 横浜に住む方々に聞いた、横浜のいい所。

 皆、嬉しそうな顔をしながら“日向晴の地元”と答えていた。

 住民が素敵なのは然る事乍ら……あなたが歩んできた道程が、頑張りが築き上げたモノ。

 だからこそ……私の行動一つで崩れてしまうのは理解している。

 しているのに……日向晴は私だけのモノだと…………


「余計なこと考えないの。しっかり見てなさい? さて日向選手、大きく振りかぶって……投げました。おー、ノーバンでしかもストライクゾーン入ってるんじゃない? 凄い凄い、大したものね。ほら、あなたもそんな顔してないで応えなきゃ」


 三万三千人の大観衆の中……たった一人。あなたは私を見て、無邪気に笑いながらピースサインをくれた。


「ヒナが女優辞めた理由、幾つかあるんだろうけど……大前提として、あなただけのヒナでいたいからでしょ? そういう意味でも……ふふっ、しっかり応えなきゃ駄目だからね」


 優しく背中を後押しされ、拍手と歓声に紛れながらも、私はあなたの名前を大きな声で呼ぶと……他の誰でもない、私だけの日向晴の顔をしたあなたは、愛らしく頬を染めながら微笑んでくれた。

 

 ◇  ◇  ◇  ◇  


「球場の勢いそのままに見事な勝利でしたね」


「ふふっ、そうだね。野球場なんて小学生ぶりだったけど、臨場感があって楽しかった。始球式もバッチリだったでしょ?」


 見事な始球式だった。

 そう言おうと思ったのに、言葉が喉の下……胸の奥から出ようとしてくれない。

 理由は分かってるけど……順風な今日という日を濁したくないから、精一杯あなたの問に頷いた。

 

「…………ねぇ、ちょっとそこの公園に寄ってもいい?」


 人気の無い夜の公園。てっきりベンチで一休みするのかと思ったのに……あなたは鞄から野球グラブを二つ取り出した。

 それは、このお仕事が決まってから私と何度もキャッチボールをしたグラブ。

 庭の敷地、東西目一杯使うと約十八メートル。

 それは野球のマウンドからバッターボックスまでの距離とほぼ同じで……何度も…………何度も、何度も私はあなたのボールを受けた。

 なのに今日あなたのボールを受けたのは……プロ野球選手。そんなの当たり前だけど……私、嫌でした。

 でも……見事な投球をしたあなたにそんなこと言えるわけない。

 気持ちはぶり返し……涙が溢れて止まらない。


「…………九回表、二死満塁フルカウント。一打逆転の場面でマウンド上の日向投手、サインに大きく頷きました」


「晴さん……?」


 私の手に優しくグラブをはめてくれ、あなたは……あの時と同じ、私だけの日向晴の顔をしながら微笑んでくれた。

 

「受けるのは女房役の雨谷捕手。これまでのことを思い出したのか、目には涙が浮かんでいます」


 栞さんの言葉を思い出し……涙の理由が変わっていく。


「日向投手、優勝を決める一球を……投げました」


 手の届く距離で、あなたは子供が捕れるように優しく投げ……ボールは私のグラブへと収まった。


「さて、判定は……?」


「…………ふふっ。ストライク、バッターアウトでゲームセットです。きゃっ!?」


 本当に優勝したかのように、あなたは私を抱き抱えくるくると回った。

 おでこ同士をつけて……何度も何度も、唇を重ね合わせた。


「まだ思ってることあるでしょ?」


「……呆れませんか?」


「呆れない。信じて?」


「…………女房“役”では嫌です」


「ふふっ。ねぇ、そのボール見てみてよ」


 そう言われてボールを見ると、そこには今日の日付と……それから…………


「……どうして全部分かっちゃうんですか?」


「だって私は雫だけの日向晴だから。理由になってないかにゃ?」


 砂場へとあなたを押し倒し、はしたなくもあなたの唇を塞いだ。 

 わがままでごめんなさい。でも、自分が抑えられない程あなたが好きなんです。


「……晴さん大好き」


「ふふっ。私も……大好き」


 グラブから転げ落ちたボールは私達のそばで止まり……静まる夜の公園、その街灯に照らされて私達を見守っていた。


 2024年11/3(日) 日向雫へ 日向晴より

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