第200話 あなたの隣、オレンジ色のキス
陽は顔を覗かせ、小鳥達が朝の歌と共に枝を揺らす。
街が起き始めようとゆっくり伸びをしだす明方。車のエンジン始動音が、私の心を躍らせる。
「じゃあ彩、家の事頼んだよ」
「はいはい。雫、気をつけてね」
「私には心配しないの?」
「晴姉はまぁ……あれだ、雫のこと頼むね」
「言われなくてもですよーだ」
舌を出して可愛らしく笑っている晴さん。
ぎこちなくそれを見つめる私。
緊張しているのを見透かした彩ちゃんは、私を強く抱きしめてくれた。
「飛行機は考えられないくらい高い所飛ぶし言葉は通じ難いと思うけどさ、全部雫の大切な一部になると思うから……目一杯楽しんで、お土産一杯買ってきてね。これ、お守り」
可愛らしく笑う彩ちゃんから手渡された……手作りの御守り。こういった細いことは苦手だと常々言っていた彩ちゃん。
……晴さんが施してくれたお化粧が取れてしまう程、涙が頬を伝っていく。
「もー、大袈裟だなぁ。私の手製じゃ大したご利益ないと思うけど?」
「……いいえ。この御守りは私の大切な一部ですから。彩ちゃん、行ってきます」
お姉さんらしく、彩ちゃんの頭を撫でた。
晴さんに似た愛らしい笑顔で大きく手を振る彩ちゃん。車が出発し見えなくなったその後も、健気に手を振る姿が私には見えていた。
「私の方が姉歴長いのに……ふふっ、なんか妬いちゃう」
思い返せば……この時の私は随分高揚していたのだろう。普段ならしないこと、言わないことも、この時ばかりは……
先程の彩ちゃんと同じ様に、あなたの頭を優しく撫でる。
「ふふっ、私の方が数分早く産まれたんです。つまり……私の方がお姉さんなんですよ?」
車のサイドブレーキが効く音と共に、カーテンが閉められる。
私に覆い被さったあなたは耳元で甘く悪戯に囁いた。
「空港に着くまでは我慢しようと思ってたけど……やっぱりやめた」
「そ、その……何をですか?」
「朝食。いただきます──」
◇ ◇ ◇ ◇
羽田空港第三ターミナル。
浮つく心を吹き飛ばすかのような深紅の痕が私の首筋に三つ。
腕を組む栞さんと大きく手を振る葵さんが見えてきた。
「あんた達こんな朝から盛ってんの?」
「bonjour!」
「ふふっ、なんだかワクワクするね。取り敢えずラウンジに行くんだよね?」
晴さんはスマホに保存した旅のしおりを開き、目を輝かせながらキョロキョロと辺りを見回している。
海外は晴さんも初めてだから──
「雫と一緒だから楽しみなんだよ?」
私の考えなんて筒抜けで……ただそれが何よりも嬉しくて、あなたの好きな顔で微笑んだ。
「……では、素敵な旅行にしましょうね」
「相変わらず熱っ苦しいわ」
「Amour! merveilleux!」
「なんで葵はずっとフランス語?喋ってるの?」
「今日一日フランス語縛りだと」
「Oh! mon Dieu!」
「バカが伝染るからラウンジに行きましょ」
ラウンジなる場所はこの流動的な空港内で寛げる空間で……ビュッフェ形式での食事、アルコールも用意されてます。栞さんはお水を飲む様にお酒を喉に流し込み、葵さんはフランス語で音頭をとっています。それを笑顔で見つめる晴さん。
私の視線に気が付き、私の好きな顔をしてくれる。そんなあなたを……フィルムカメラでパシャリ。
シャッター音で弾ける胸の高鳴り。
現像するその瞬間に初めて生まれる、私の好きが詰まった宝物。
そんなカメラを眺めていると……顎を持ち上げられて、間抜けな顔をしてしまう。目先には晴さんがいて……深く深く、私を見つめていた。
「雫の目にも……ちゃんと焼き付けて」
その言葉がなくても、瞬きが出来ない程にあなたで一杯になってしまう。
ごめんなさいと瞳に込めて、あなたの頬へキスをした。
◇ ◇ ◇ ◇
「やっぱり船の方が良かった?」
「い、いえ……ただ……その……と、飛ぶんですよね? い、一万メートルの高さですし……」
揺れ始める機内。窓に反射する私の顔は強張り、彩ちゃんから貰ったお守りを握りしめている。
本来ならば、行ってきますと挨拶するように滑走路を巡る景色を眺める筈が……窓の手前、自分の姿しか見えない程張り詰めてしまう。
「怒られるまでこうしててあげる」
仕切られた席を乗り越えて、晴さんは私を抱きしめてくれた。
あなたと出会う前、建物の三階以上高い場所は足が竦み行けなかったし行こうともしなかった。
あなたと出会って……三回目の日、気が付けばあのマンションの二十二階にいた。
でもそこがどんな高さかだなんて理解したのは、大学で講義を受け終わった時だった。
あなたのことしか頭になかったから……あなたしか見えていなかったから。
今も私の中にはあなたしかいない。私の瞳にはあなたしか映らない。
タワーマンションも東京タワーも、どれだけ高く飛ぶ飛行機も……いつだってあなたが隣にいてくれるから…………
「……へっちゃらです」
「ふふっ、私が離れられなくなっちゃった。もうちょっとだけ──」
客室乗務員の咳払いで周りの音が聞こえ始め……真っ赤な顔をした私の頬にキスをし、あなたは隣の席へ移動した。
飛び立った先の雲の上。
窓の外に広がる碧天は、お母さんが笑っているように見えた。
✈ ☂ ☂ ☼ ☼ ✈
「Arrivé en France!!」
「葵、みっともないからいい加減辞めなさい」
「Fermez-la! Merde vieille dame!!」
「雨谷さん、この馬鹿がなんて言ってるか分かる?」
「た、多分ですが、“黙れ、クソババァ”と……」
葵をボコボコにする栞とそれを必死で宥めている彼女。シャルル・ド・ゴール国際空港から見る、いつもの景色。
時計の時差を調整すると、自動で回り始める時針達。
飛び交う異国語、空気感。外は十九時を過ぎても尚明るく、その色は見慣れない程に蒼かった。
「ホントにフランスに来てる……んだよね?」
「ふふっ、不思議ですよね。地に足がつかないといいますか」
「ね。なんだか夢みたい……」
「では……確かめてみますか?」
彼女は顔を赤くしながらも私の頬を優しく二回抓り、背伸びをしてキスをしてくれた。
甘く柔らかなそれは夢なのではと思わせる程に──
「……ふわふわして、蕩けてしまいそうですね。もしかしたら…………ふふっ、夢かもしれません」
「…………今度は私が確かめてあげる」
人目を憚らず互いを求めていると、栞のグーパンチが私の脇腹にめり込んで……笑ってしまう程に痛く、やはりここが現実なのだと笑顔で彼女を抱きしめた。
◇ ◇ ◇ ◇
その日は空港に隣接されたホテルで一泊し迎えた次の朝。気がつけば車のハンドルを握る私。
「どうして私が運転してるのかにゃ?」
「仕方ないじゃない。アルコール検知器が反応しちゃったんだから」
栞は明方まで飲んでいたらしく運転出来ない始末。念の為申請しておいた私の国際免許が役に立っている。
いつもと違う左ハンドル、見慣れぬ標識、流れる景色。助手席には……どの地でも変わらず愛らしく微笑む彼女。
予習してきたと言っていた彼女は、膝の上に置いた地図を見ずに目的地までナビゲートしてくれた。
「覚えることは苦手ではないので」、なんて彼女はいつも謙遜するから……だから私はこうする。きっと……彼女の母もそうしてきたのだと感じ、異国の空を見て少し笑ってみた。
「雫は頑張り屋さんだから……ふふっ、尊敬しちゃうな。そういう所も大好きだよ」
彼女の頭を優しく撫でると……彼女もまた、私と同じように空を見て、照れながらも可愛らしく微笑んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
空港から車で約一時間。
目的地である美術館に到着し入館すると……彼女は瞬きを忘れてしまったかのように、只々目を見開き頬を赤く染めていた。
柔らかな唇から漏れるその吐息に少し……嫉妬をしてしまう。
世界三大美術館の一つであるここルーブルは、文字通り世界一の入館者数を誇り絶え間なく人々が往来している。
何時もは私もそちら側の人間で、“なんとなく”作品を眺めては次の作品へと向かってしまうだろう。ただ今日は彼女がいるから……一つ一つの作品と向き合い足を長く止める彼女を見習って、音声ガイドを頼りに背伸びする。
時折人の流れに押しつぶされそうになると、彼女を守るように肩に手を置き、彼女の背に立ちその可憐な身体を覆う。
そんなことが何回目だろうか……彼女は肩に置かれた手に頬擦りをし、軽く唇を付けてくれた。
恥ずかしいのか、私の方を向いてはくれなかったけど……真っ赤になったその耳に、私はときめいている。
「……美術館は昔から好きでしたが、晴さんと出会う前までは作品に対して今一つ理解出来ない部分が多かったんです」
「ふふっ、雫でもそんなことあるんだ」
「…………でも、今はそれが理解出来て……嬉しいんです。だって晴さんが教えてくれたことだから」
ロココ様式の絵画を眺めながら、彼女は人差し指で何かを描いた。それがハートマークだと知ったのは、彼女の指が私の唇に触れた時だった。
「……Tu me fais craquerです」
背伸びしても、手を伸ばしても届きそうにない程眩しい彼女。そんな彼女の言葉に反応したスマホの翻訳機。
場違いだって分かっているけれど……強く強く、彼女を抱きしめた。
衝撃でポケットから落ちたスマホの画面を見た彼女。一層顔を赤くして、強く強く抱き返してくれた。
“
◇ ☼ ☼ ☂ ☂ ◇
欧州旅行四日目。
私達は三カ国目、イタリアを旅しています。
四日間アルコールが抜けない栞さん。晴さんの運転に頼りっぱなしで……私に出来ることはなんでもしようと思う……のに…………
「ふふっ、寝ててもいいんだよ?」
「す、すみません……晴さんが頑張ってるのに私…………」
「…………ドライブでさ、こうして雫と会話するのは楽しいし、一緒に景色を眺めても嬉しいし……寝顔を見るのも心地良いの。つまりどういうことか分かる?」
「ど、どういうことでしょうか?」
「雫が隣にいてくれるだけで幸せ。分かったかにゃ?」
それが運転負担の軽減の答えになるのかは分からなかったけど……でもあなたが喜んでくれるなら。
今出来る一番の眠気覚まし。
あなたの頬にキスをして、あなたの好きな顔で微笑んだ。
「あんた達さ、数えたら一時間に百回はキスしてんだけど。キスしないと死ぬの?」
「だって、雫。ふふっ、どう?」
「…………死んじゃいます」
「だってさ、栞」
「は、晴さんは……ど、どうなんでしょうか……?」
「…………ふふっ、死んじゃいそう」
◇ ◇ ◇ ◇
永遠の都。イタリア最大の街、首都ローマ。
ここローマ歴史地区で私は今……
「いい? 毎回注意してるけど変な人多いから気をつけなさい? あそこにいる衣装着た人に誘われて写真撮るとお金巻き上げられるから──」
……私は今、歴史の一枚を垣間見ている。
「ふぇぇ……ほ、本物ですよ……フラウィウス円形闘技場が目の前に……」
「ふふっ、そんな名称なんだ。私はコロッセオしか呼び方を知らないけど……なんでそう呼ぶの?」
「そ、それはですね──」
拙くも、私が知っている限りを丁寧に伝える。
本でしか知らなかった……半ば絵空事のような景色だと思っていた古代ローマの世界が目の前に存在して……はしたなくも、興奮しているなと顔が赤くなる程に自覚している。
「ヒナちゃんヒナちゃん! あっちにいるグラディエーターの格好した人をさ、どっちが近くで写真撮れるかチキンレースしよ! ほら早く早く!!」
「ちょ、ちょっと葵──」
葵さんに勢い良く手を引かれ連れ去られてしまう晴さん。燥ぐ葵さんに、晴さんもつられ笑い。胸元でひらひらと小さく手を振り、辺りを見回す。
一人は危険なので栞さんの側へ行くと、険しい顔でスマホとにらめっこをしていた。
「栞さん、いかがなさいましたか?」
「詩ちゃん(恋人)が私の写真を送ってくれってきかなくて。その……せっかくなら可愛い顔送ってあげたいんだけど、私自撮り苦手だから」
そう言いながら困った顔でスマホの撮影画面を眺める栞さん。
もしここに晴さんか葵さんがいれば、冗談の二つも言い合って……栞さんの笑顔を引き出せるのだろう。
「……すみません。あのお二人のように明るく振る舞えれば、栞さんのより良い顔を撮影出来るのでしょうが……私はその……つまらない人間なので……」
つい俯いてしまうと、頭をくしゃくしゃと撫でられて……おでこに軽くデコピンをもらった。
顔を上げると……素敵な顔で微笑む栞さんがスマホを手渡してきた。
「ふふっ。冗談が言えないあなただから、みんなあなたには本音が言えるんじゃない? 私はそう思ってるよ。それに……あなたが、雨谷さんが私達を繋げてくれたんだから。ほら、煩いのが来る前に撮っちゃって」
幸甚の至り。するりと手の隙間からスマホが抜けてしまいそうになり強く握り直すと……溢れる思いは私の瞳から流れ出した。
繋がり、そして巡る昵懇。だからこの写真は……私にしか撮れない、私達の写真。
フラウィウス円形闘技場、少し照れながらポーズを決める栞さん。その後ろには、忍び足で訪れ互いの両の手でハートマークを作る晴さんと葵さんが満面の笑みで写っていた。
⛴ ☂ ☂ ☼ ☼ ⛴
フランス、モナコ公国、イタリア、バチカン市国。旅の思い出は言葉にも文字にも起こすことが出来ない程溢れていて……船上、私達は最後の目的地スペインへと向かっている。
あの朝、雫が聞かせてくれたイベールの寄港地。その最終楽章の舞台になったバレンシアの港が目の前に広がっていた。
「葵、あんたのお陰で大分予定に余裕が出来たわ。アリガトね」
「ふふっ、足向けて寝られないでしょ? 帆風が気持ちいいね」
と言うのも、モナコ公国のカジノで葵が爆勝ちしてしまい……以降ホテルのグレードは全て上げてもらい、陸路で横断する筈だったスペイン行きはこうして海路に変更された。
「ねぇ雫、あれって…………」
彼女に訪ねようとしたけれど、少し元気が無い様子で……私の腕を少し強く抱きしめていた。
誰よりも準備をしてこの旅を楽しみにしてきた彼女だから……先が見えてしまうことが悲しいのだろう。
眼前に迫るバレンシアの先は…………
「ねぇ雫……次はどこに行こっか?」
「スペインの山中にある小さな町……ですよね?」
「ううん、その次。ハワイとかグアムみたいな暖かい所も行きたいし……フィンランドとか北欧も行ってみたいよね。今回行けなかったドイツとかベルギーのある中欧も。ふふっ、楽しみいっぱいだね」
私の腕を抱きしめるその力がほんの少し緩み……柔らかな抱擁に変わっていった。
その顔も……赤く、柔らかく。
「…………キスしてもいいですか?」
「ふふっ、どうしよっかにゃ──」
私の冗談を遮るように、彼女の唇が触れた。
精一杯背伸びするそのつま先と踵が愛しくて、抱きしめようとしたタイミングで揺れる船体。
彼女を守るように強く抱きしめて支柱へ寄り掛かり、暫しの間戯れる。
かつて太陽の沈まない国と呼ばれたスペイン。
その燃えるような情熱の風を浴びながら、今回の旅で最後の国……スペイン王国へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ねぇ栞、今から行く小さな町って何があるの? マップ見ても周りには山しかないみたいだけど」
バレンシアの港町、ジェラートを舐めながらスマホで位置を確認する。ここから車で二時間半、一体どんな場所なのか……
「何もないわ。小さな町っていうか……村ね。一応、日本のスーパースターがプライベートで行くって連絡してあるから綺麗な寝床は用意してくれてあるけど」
「えっ!? 何もないのに何しに行くの……?」
「ワインの祭りやってるから。それにあんたがやらかした場合のリスクヘッジ」
フランスでもイタリアでも、定番の観光地には日本人が大勢観光に来ていて……私が人集りを作ってしまう場面が何度もあった。
日本という箍が外れた私はいつも以上に彼女しか見えず……栞がドン引きする程彼女とイチャイチャしているらしい。今回の目的地はそんな私を見越してのことなのだろうか。
なんて考えているのに……レンガ造りの裏路地、ジェラートを食べる彼女を食べる私。
「は、晴さん……その……溶けちゃいます……」
「ふふっ、どっちが?」
「…………どちらもです」
オレンジのジェラートが、ポタポタと日陰の石畳に落ちていく。半分食べたジェラートを彼女は私にくれた。その意味を私は……後に知る。
半分に割れたオレンジ。一つは私で一つはあなた。生涯愛するパートナーという意味を持つ……ここスペインでの愛の説法。
栞に耳を抓られて、笑いながら車へ乗り込んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
草原を長閑に行き交う山羊達。
朽ちた古城の麓に広がるその小さな村は、まるでおとぎ話に出てくるようで……可愛らしい噴水がある中央広場では、ワイン祭りが行われていた。
「くっっさwww シオちん、このチーズヤバいよ。草生えるほど臭いwww」
「三十過ぎて気色悪い言葉使って……恥ずかしいから近寄らないで」
「老い過ぎて草も生えない枯れ加齢婆はこちらwww」
「…………いい度胸してるじゃない」
挑発しては幾度となく栞にボコボコにされる葵。でもそれには葵らしさがあって……栞の機嫌で空気が悪くなりかけると、わざとちゃらけては場を盛り上げてくれる。
雫と出会う前は私も大分尖ってたから……葵はいつも私と栞の間に立ってくれた。
「葵さん……だ、大丈夫ですか?」
「前が見えねぇ」
聞かされていたゲストルームの質とは程遠かったのか、舌打ちをして帰ろうとしていた栞は葵に宥められて?渋々ワインを飲み始めていた。
彼女は氷をビニール袋にいれ、更にそれをハンカチで包み葵の顔へ当てている。
「山羊のチーズは独特の香りがしますから………ふふっ、ちょうどバレンシアで買ったオレンジ蜂蜜があるのでこれをかけて食べてみましょうか。栞さん、如何ですか?」
「……うん、癖はあるけどワインにちょうどいいかも」
「私も食べたい! 雫ちゃん食べさせて」
「ふふっ。では、あーんしてください」
「天使過ぎる……ヒナちゃんには勿体ない子だ……あーん」
そんな三人を横目に、私はマドリードからやってきたラジオ局の人達に囲まれている。日本の人気女優、日向晴としてのインタビュー。
情熱的な生演奏のフラメンコが会場を盛り上げ……スピーカーから“ハポン”と聞こえると、何故か雫がステージ上に。半ば強引に連れて行かれていた。
酔っ払い達の拍手、響く指笛。
おろおろと困った顔をしたものの……彼女は可愛らしくお辞儀をして、設置されていたピアノと対峙した。
目を瞑り深呼吸するそのさまは、私が植え付けた彼女のルーティン。彼女もそう思ったのか……チラッと私を見て微笑んだ。
聞いたことの無い緩やかな曲が流れる。
喧騒はやがてざわめきに変わり……何故か観客たちは静かに彼女の奏でるその音楽に傾聴し始めた。
戸惑う私に、栞が少し意地悪な声で答えてくれる。
「この村、私行きつけのスペイン料理屋の店主の故郷なの。で、この曲はこの地域……かなり狭い域で昔から歌われている伝統的な子守唄。何回か店主に聞かされたことがあったけど……あの子は自分で調べてきたみたいね。心当たりあるんじゃない?」
殆ど見せたことのない、誰かを尊敬する栞の眼差し。それは、持っているワイングラスを机に置いてしまう程。
栞から旅の詳細を聞いた三日後、彼女と図書館に行った。彼女は納得出来なかったのか……音楽大学へ行ってくるといい、私の代わりに彩が彼女についていった。思えばあの時……
「……ホント、ヒナには勿体ない子ね」
旋律は止み、分散和音が散りばめられると……彼女の澄んだ美しい歌声が、優しく響き届く。
多くの人は涙を流し、懐かしむように目を瞑り、彼女と共にその子守唄を口ずさんでいる。
その光景に……何も知らない私でさえ自然と涙が頬を伝う。
大きな喝采を浴びた彼女は、ラジオ局からのインタビューにスペイン語で応えている。
「¿Cómo te llamas?」
そう聞かれマイクを手渡された彼女は……少し照れながらも愛らしく答えた。
「mi nombre es……shizuku」
その答えに会場は歓声や指笛が鳴り盛り上がっていた。
「¿Viniste a España de viaje? ¿Con quién es?」
当然だけどなんて言ってるのか分からず……スマホで翻訳出来ないか調べようとした時、ワイングラスを片手に私の肩に手を回す栞。鼻で笑いながら呟いた。
「旅行……ですか? 誰と……あー、来ましたか?」
「栞……スペイン語分かるの?」
「イタリア語となんとなく似てんのよ。ほら、ちゃんと見てなさい。勿体なくてもあんたはあの子の全部なんだから」
「Vine aquí con alguien importante para mí. Un amigo, luego un ser querido」
「大切な人と……来ました。友達、それから……愛する人」
リポーターが次に質問をすると、栞の声が聞き取れない程に盛り上がる聴衆。栞は微笑みながら顎を使い、彼女を見てろと促した。
一瞬私を見た彼女は、顔を赤くしながらも嬉しそうな顔で微笑んでくれた。
日本から10,500km。
どの地、どの世、如何なる刻も、私は彼女に恋をする。
「¿Quieres ser mi media naranja?」
「……私の、半分。半分のオレンジになってくれますか? なにこれ、どういう意味かしら……」
「あ、私カジノでスペインの人にナンパされた時似たようなこと言われたよ。後で調べたんだけど確か──」
彼女の微笑みも、バレンシアで渡されたジェラートの意味も、胸が締め付けられる程に繋がっていく。
でも、勿体ないなんて思わない。
私は雫が大好きで、雫は私が大好き。
私達は……ふふっ、一時間に百回はキスしないと死んじゃうんだから。
気が付けば雫の前に立っていた。
聞こえるのは、私の鼓動と雫の息遣いだけ。
いつ何が起きるか分からないから……いつも持ち歩いてた。その大切な私の半分を、雫の薬指に優しくはめた。
私から言おうと思ってたのに……ふふっ、先越されちゃった。
とびきりの笑顔で……雫の問に、愛に応えた。
「はい、喜んで」
オレンジ色のキスをして、互いの半分に。
◇ ◇ ◇ ◇
「こうやって街が遠ざかってくとちょっと寂しいね。ねぇ雫、次はどこに行きたい?」
「……私は行きたい所にいつも行けてますから」
「えー、どこ?」
「ふふっ。あなたの隣、です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます