第198話 quiero un besito


「クルーズ旅行したいから三ヶ月休ませろ? よくそんな気が狂った台詞言えるわね。葵、仕上げちゃって」

「いいなぁ、ヒナちゃん旅行するの?」

「葵、手を動かしなさい」


「じゃあさ、二ヶ月っていうコースもあったけどそれは?」


「無理よ。女優辞めたってうちの稼ぎ頭なんだから。一ヶ月でも無理」

「ヒナちゃん人気者だからねぇ」


「……そっか、そうだよね。ごめんね、変な事言っちゃって」


「……そんなに落ち込まないでよ。こっちが悪者みたいじゃない」

「ごめんね、ババァが融通効かなくて。シオちん、なんとかならないの?」

「…………撮溜出来るのはしちゃってスケジュール調整して十日とれるかどうかってとこ…………ヒナ?」


「…………ふふっ、ふふふっ。じゃあ十日間、休み貰います♪」


 ◇  ◇  ◇  ◇


 本当は一週間でもくれれば御の字だと思ってた。でも初めから一週間休ませてくれって言っても渋るのは分かっていたし、三ヶ月から始めて徐々にハードルを下げていく作戦にした。

 身近にいる栞と葵を欺けるのだから、私の演技もまだまだいけるのだろう。


 そんな仕事の合間、なんとなく調べていたスペイン語。愛の言葉が多くあるらしく……彼女を思い、一人惚気ていた。

 

 家に帰ると、露知らずな彼女が笑顔で出迎えてくれた。ただいまのハグをして、おかえりなさいのキスを貰う。


「なにか良いことがありましたか?」


「ふふっ、どうして?」


「その……分かるんです。す、好きな人のことですから……」

 

 そう……恋人だからとか、長く一緒にいるからとか、そうじゃないよね。私達の一番初めにあるモノ。好きっていう気持ちが……心の内を伝え合ってくれる。


「……私も、雫の考えてること分かるよ。ただいま、雫──」


 ただいまのハグをしておかえりなさいのキスを貰い……ただいまのキスを返す。

 おでこ同士を擦り合わせ、互いの吐息を感じ合う。体感的には数分、時計を見ると……一時間近く見つめ合っていた。


「良いお知らせがあるの」


「ふふっ、あなたが無事帰ってきてくれただけで……私には十分過ぎる程に良いお知らせですよ?」


 キスの合間に、言葉を綴る。


「連休貰えそうなの。十日くらいだって」


「わぁ……よかったですね。どこか温泉街でゆっくり、なんて素敵かもしれませんね。この時期ですと──」

 

 遮るように唇を塞ぐと……その柔らかな接点から私の心の内を知る彼女。次第に目を見開き、頬を赤く染めていく。


「ふふっ。何が必要か……分かるかにゃ?」


「で、電圧変換器……ですか?」


「あっはっは! もー……それも大事だけど、もっと大切なモノ……あるんじゃない?」


 少し抜けた彼女も好き。それは、出会ってからも変わらずにいてくれる素敵な個性。耳まで赤くした彼女は小さな小さな声で囁いていた。


「……パスポートです」


 正解のキスも小一時間。

 そのまま浴室へ向かい、二人仲良く泡が揺らめく湯船に浸かる。柔らかな彼女を泡ごと抱きしめる。


「海外となると、なんだか緊張してしまいますね」


「ふふっ。雫、英語出来るでしょ? 頼りにしてるね」


「こ、講義の上での話でして、実践出来るか分かりません……」


「きっと大丈夫だよ。それに最近他の言葉も勉強してるんでしょ? よく机の上に本が置いてあるし」


「その……最近は西語を少し」


 西語って……どこの国だろう。

 彼女の唇を弄りながら向かい合い、おでこ同士をつけた。


「ふふっ。じゃあ……何か喋ってみて?」


「…………quiero un besito」


 少しだけ上目遣いをし、瞳を揺らしている彼女。その言葉に……私は応えられた。

 おでこに優しく、可愛らしくキスをする。


「ふぇっ!!!? ど、どうして、その……わ、分かったんでしゅか??!!」


 偶々見たスペイン語の記事。

 偶々気になった単語。

 偶々イヤホンをしていたから発音を聞いた。

 でもそれは全て答えになっていなくて……どうしてかと聞かれたら、こう答えるだけ。


「だって……ふふっ、好きだから」


 真っ赤な顔で口をパクパクとさせる彼女。


 quiero un besito.

 スペイン語で、『チュー、して欲しいな』。

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