第197話 欧州旅行前日譚


 陽春。オーブンから漂ってくるチョコスコーンの香りに釣られ、買ったばかりのハンモックに揺られながら尻尾を振る私とポンちゃん。

 ヤカンの蓋がカタカタと鳴り始め、紅茶を淹れる準備をする彼女。目が合い手を振ると、愛らしく振り返してくれた。

 付けっ放しのテレビからは旅番組……もとい、大掛かりなクルーズ旅行のCMをやっていた。

 部屋の隅に作った小さなカフェスペースへと、焼き立てのスコーンと紅茶が並べられる。笑顔で誘われ、おでこ同士を擦り合わせ席につく。


「クルーズ旅行……それも、海外なんですね」


「雫は海外旅行したことあるの?」


「ありません。高校時代の修学旅行はベルギーだったんですが、父の許可が得られなかったので……いつかは…………ふふっ、行ってみたいものですね」


 少し遠くを見つめて笑う彼女。

 私と出会う前の記憶は……もしかしたら、いい思いが無かったのかもしれない。でも、それも含めて彼女だから……だから、私に出来ることは一つしかない。

 

「私もね、修学旅行も海外旅行も行ったこと無いの。だからさ……一緒に海外旅行しない? ふふっ、私達初めての修学旅行だね」


「ほ、本当ですか!? その、私……」


 嬉しさを隠すように服を少し握る、彼女の癖。

 もっともっと甘えて欲しいけど、今精一杯な彼女も大好き。寄り添いながらタブレット端末でヨーロッパ辺を調べていると、彼女は自室へ小走りで向かっていった。

 少し嬉しそうに、少し恥ずかしそうにしながら持ってきたケースに入ったCD。リビングに備え付けてあるオーディオ機器にそれを入れると……一足早い異国の景色が顔を覗かせた。


「綺麗な曲……なんて言うの?」


「Jacques.Ibert作曲、Escalesです。和訳で“寄港地”と言います」


 今調べていた地中海近辺を彷彿とさせる甘美なオーケストラ音楽。

 口に入れていたスコーン、湯気から漂ってくる紅茶の香り。日本の首都東京にいる筈なのに、気がつけば異国の匂いに包まれていた。


「……今まではこの曲を聞いても、曖昧模糊たる視点の情景しか浮かんできませんでした。なのに今は…………ハッキリと思い描けるんです」


 分かっていても聞きたい気持ち。

 彼女の肩に頭を預けて、甘えるように呟いた。


「ふふっ、どんな景色?」


「…………お揃いの日焼け止めクリーム、つばの大きな色違いの帽子。靡く潮風、稠密の蒼い空。煉瓦道に飛び交う異国語に混じり、誰に憚ることなく口づけを交わし…………あなたの名前を、私は呼んでいます」


「じゃあ……今私が呼べば、時間も海も跨いで愛し合える? ねぇ?雫──」


 それは、一月後に届く声。

 東京から船で三十日、飛行機で十八時間。

 Ibertの曲に乗せられて、Valènciaにいる愛しき彼女は艶妖に微笑んで振り返っていた。

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