第196話 へいらっしゃい
出勤前、離れたくない私の気持ちを汲んでくれる彼女は優しく微笑んで私に尋ねてくれる。
甘えるように抱きつくと、背中を擦りながら抱き返してくれた。
「今日のお夕飯は何が食べたいですか?」
「んー……お魚食べたいかにゃ。生のやつ♪」
少し考えてから、頬を赤らめて頷いた彼女。
この景色が見れただけで一日頑張れる。頬を重ねて、車を走らせた。
◇ ◇ ◇ ◇
夕飯が楽しみだったから、大分早めにお弁当を食べた。
休憩時間には毎回彼女へと電話をし、スマホ越しに愛の言葉を沢山貰った。人目を憚らず私からも愛を伝えていると、マネージャーの栞は私の耳を引っ張り怒っていた。そんな場面でも、スマホ越しに私達は笑い合っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
信号待ち、指で何度もハンドルを叩いてしまう。早く帰りたい。早く会いたい、抱きしめたい。逸る気持ちを抑えながら駐車をし車のドアを開けると、我が家の換気扇からはいい匂いが漂っていた。
「ただいま……」
お出迎えが無いということは、何か特別な準備をしてくれている日。リビングへ続くドアを開けるとそこには──
「へいらっしゃい」
「……ふふっ、お寿司屋さんだ」
カウンター越し、ステレオタイプな寿司職人になった彼女。割烹着、頭には手拭いを巻いている。
「お客さん、何にしましょうか?」
「えっと……取り敢えず、本日の小鉢三種と烏龍茶で」
相変わらず達筆のお品書き。
カウンター席に座ると、ねじり鉢巻を付けたポンちゃんが背中におしぼりを乗せてやってきた。
スピーカーからは聞いたことのない演歌が流れ、思わず頬が緩む。どんな気持ちで彼女が準備してくれたのかと思うだけで……胸の奥が温まる。
「はい、こちら小鉢と烏龍茶です」
寿司職人姿の彼女があまりにも可愛くて、つい写真を撮ってしまう。頭にはてなマークを浮かべながらピースサイン作る彼女。抱きしめたい衝動を抑えながら寿司を注文する。
「鮪と……鯛の昆布締め、それに鰆の炙りかな」
「はいよ、少々お待ちくださいね」
手際よく魚を切り寿司を握っていく我が家の大将。寿司下駄に乗せ、笑顔で手渡すその瞬間……耐えられなくて頬にキスをした。
一瞬目を見開いた後、その目を瞑る彼女。
カウンター越し。暫しの間、止まる時。
名残惜しく席に座ると、寿司下駄の上に胸躍る。
「わぁ……ご飯が赤っぽい」
「赤シャリと言いまして、赤酢を使った酢飯で す。昔……大きな戦争が起きる前までは、江戸前寿司は赤シャリが使われていたんです。今日は米を炊き上げる際、釜に昆布を入れました。赤酢のまろやかさと旨味、昆布との相乗効果で……ふふっ、とっても美味しいんですよ?」
もしこんな素敵な大将がいる寿司屋があれば、毎日通っていたと思う。
それは誰も知ることのない、私だけのお店。
一口運ぶと、その美味しさに頬が緩む。
「ふふっ、今まで食べたお寿司の中で一番美味しい。もうここ以外では……食べたくないな。刷毛で塗ってたのは醤油?」
「に、煮切り醤油と言いまして──」
彼女は頬を赤く染め、嬉しそうな顔で説明してくれた。
寿司一つ届く度に重なる唇。
鼻先に付いた米粒一つで笑い合う。
「そういえば、女性の寿司屋さんなんて初めて。なんだか新鮮な感じ」
「そうですね。女性の手は温かいのでネタに影響がする……なんて真しやかに言われていますが、実際の所文化的な問題かと……」
手を擦りながら少し困った顔で笑う彼女。
ただ本当に、それだけの意味で言ったのに……いつだって彼女は私の想像を容易く超えていく。
「ふふっ、温かい手でも良いんじゃない? ほら、試しに私の手、握ってみてよ」
「で、では失礼します……」
私の指を寿司作りの様に優しく握り始め、口へ運ぶ彼女。意味も言葉も、全てを置き去りにしていく程に愛しい真っ赤な顔をした彼女。
カウンター越し。解いた手拭いは、はらりと床に落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます