第172話 いつも月夜に米の飯
「ふぇぇ……素敵ですね……いつまでも眺めていられますね……」
「ふふっ、一時間前も同じ事言ってたよ?」
今朝、私の故郷で行われる夏祭りのポスターが届きました。既に村内や周囲の市内に貼られている代物で、リビングの一番目立つ場所に飾りうっとりしている最中です。
畦道、浴衣姿でしゃがみながら微笑む晴さんと、それを見つめる首を傾げた一匹の雨蛙。キャッチコピーなるものは『触れられる景色、薫る日本』。
兎に角、語彙力が無くなってしまう程可愛いんです。可愛い。好き。大好き。
「…………あれ、詩音ちゃんから電話ですね……はい、雫です」
『よっ、元気?』
「うん、元気で健やかに過ごしてるよ。詩音ちゃんは? 名古屋も暑いよね、大丈夫?」
『毎日死んでるよー。今度の祭りでさ、色々と話そうよ。皆んなで応援しがてらさ』
「ふふっ、何を応援するの?」
『何言ってんの、お父さんのこと…………あれ? 知らない? ……せっかくだし実家帰ったら?』
「う、うん。そうするね……うん、じゃあまた今度ね。お互い身体に気をつけようね……うん……ふふっ、そうだね。じゃあまたね── 」
電話を切ると、手際良く私にお化粧を施してお気に入りの服を取り出した晴さん。理由が分からず着替えると、大きいストローハットを被せてもらい頬に数回キスをされ……その笑顔に手を引かれ、背を押される。
「じゃ、行こっか」
「あ、あの……どちらに?」
「ふふっ、祭り会場の下見」
「ふぇっ!? ど、どうして分かるんですか……?」
「理由、いる?」
唇同士が触れ合うと、私の問がどれ程野暮な事かと痛感させられ……小さく首を横に振って、ゆっくりと目を閉じた。
◇ ◇ ◇ ◇
高速道路を降り村へ向かう山越えの前、コンビニで飲み物を買うと、目立つ場所へ貼られていた祭りのポスターに口元が緩んでしまう。
コンビニ横の小さな空き地には選挙戦の看板が一つ立っていた。
「こんな時期に選挙するんだ?」
「市長選ですね。……少し前から噂はされていましたが、この辺りから私の住む村までの一帯が一つの市になるそうでして……名前は残りますが、村としては今年度で終わってしまうそうです。変化を嫌ってきた地域ですし、現職の市長が再選をするのでは…………ふぇふぇっ!!!!?」
「どうしたの雫…………えっ?」
◇ ◇ ◇ ◇
「お、お父さん!!!! どういうこと!?」
「騒々しいな……来る前は連絡しなさいとあれ程言っているだろう……」
村の至る所に設置された選挙戦の看板。
現職の市長、その隣には雨谷龍彦の文字と顔。
投票日は……祭りの当日。詩音ちゃんが言っていた応援とはこのことだったらしい。
「ど、どうして市長選に出るの?」
「この村は合併し市になる。私も今年度で任期満了だ。特に不都合はないだろう。祭りの打ち合わせは終わらせてある。何の問題も無い」
そんなことが聞きたいわけではないけれど、お父さんは一度決めたら二度と曲がらない。
オロオロしていると、私の肩を抱き寄せながら溌溂とした声が響く。
瞬間的に湧き上がるあなたへの“好き”は私の思考を鈍らせ……お父さんの目の前でも関係なく、私はあなたに抱きついていた。
「何か出来ることはありますか?」
「……このところ、忙しくて手が足りん。畑の野菜を採りなさい。これ以上放置すると薹が立ってしまう」
「ふふっ、はーい。雫も連れて行っていいですか?」
「好きにしなさい」
その言葉通り……誰もいない東屋で私を好きにするあなた。気が付けば作業着を着ていて、大玉スイカを井戸水で冷やしていた私。
冷たくなった手の平を頬に当てると、刈払機で蒸し返された草の香りが生温い風に乗せられて……遠くで鳴く蜩と聳える入道雲、あなたが残した首筋の痕へと滲む汗に夏を感じていた。
「可愛い顔してる。さては私のこと考えてたにゃ?」
「……いつだってあなたに夢中ですから」
何度も重なる唇。
いつまでも赤い顔をした私を、くし切りにされたスイカ達に笑われているような気がして……引かぬ火照りにまた一つキスを貰い、惚気て種を飲み込んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
号砲花火、三段雷。
薄曇りで心地よい風が吹き、天際からはこちらを覗くように微かな陽がさしている。
子供たちは村中に設置されたスタンプラリーなるものに夢中で駆けずり回り、大人たちはお酒を片手に数多く並ぶキッチンカーや出店の匂いにつられ列を成している。
それから会場の特設ステージでは……
『──FMをキーステーションに全国38局ネットでお送りします晴ラジ。さてさて……今回は公開生放送ということで── 』
晴ラジ初の生放送が行われ、ファンの一員として最前列(贔屓席)で楽しませてもらっています。
マネージャーの栞さんはドイツ製のビールが出てくる機械の前に根を張ってしまったらしく、代わりにプライベートで来た葵さんが裏方として奮闘している。
『とても趣のある素敵な木造校舎の前で放送していますが……ふふっ、山越え三つした場所とは思えない程賑わっています。夜は花火が上がるそうでして、私も楽しみたいなと── 』
「雫、どうせ録音してるんだから後で聞けばいいじゃん。大体晴姉の声なんて毎日聞いてるんだしさ、ケバブ食べに行こうよ」
「ふふっ、ではもう少しだけ聞かせてもらえますか? なんだか落ち着かなくて……」
お父さんのことが気が気でなく、少しでも安心できる何かが傍になければ心が保てなくなってしまいそう。私はここでこうしていてもいいのだろうか……
「パパなら大丈夫でしょ。何考えてんのか全然分かんないけど、雫よりも頭良いんでしょ? だったらさ、私達に出来ることなんて待ってることしかないじゃん。パパが仕切ってる祭りで目一杯楽しんでさ、帰ってきたらおかえりって言ってあげようよ」
「彩ちゃん……」
「ほら、行こ」
いつもとは違う小さくて柔らかな手が、いつもとは違う左手と繋がる。
“右手は晴姉のだから”、なんて優しい心の声が聞こえて……無垢な笑顔で彩ちゃんは微笑んでいた。
慌てて振り向くと、あなたは机の下で小さく手を振って笑っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「おっ、雫やっと会えた。相変わらず日向さんは可愛いねー。隣の子は?」
かき氷屋の列に並んでいると、後ろから詩音ちゃんに声をかけられた。
口にソースをつけながらリンゴ飴を美味しそうにぺろぺろしています。
「ふふっ、私の妹の彩ちゃんです。彩ちゃん、親友の詩音ちゃんです」
「妹なんていたっけ?」
「……なに、この味噌臭い芋は。お仲間のじゃがバターならあっちに売ってるけど?」
「あ、彩ちゃん!?」
「はぁん……何に嫉妬してんのか拗ねてんのか分かんないけど、年上には敬語使わなきゃいけないでしょ? ナメんなよガキんちょ」
「し、詩音ちゃん!?」
「敬う必要無いんだから敬語にならないでしょ」
どこか似たような雰囲気のする二人だから仲良く出来る……なんて思っていたけれど、必ずしもそういう訳では無いらしい。
板挟みになった私を誰かが肩を引き……代わりに間に入り、私の頭をポンポンと数回撫でてくれた。
誰か……なんて考えること自体可笑しい。
困った私をいつだって守ってくれる大切な人。
「ふふっ、皆んなで何してるの? こんにちは詩音さん。彩、詩音さんにちゃんと挨拶した?」
「晴姉……いや、してないけどこの人が── 」
「雫の大切なお友達なんだから……分かるでしょ?」
「…………こんちわっす」
「いや、私の方こそイキっちゃってて、その………ちわっす」
その光景に思わず笑ってしまい、あなたの周りには自然と花が咲いていた。
烏滸がましくも私もその一輪になり、こっそり指同士を触れ合わせている。
「日向さんラジオはいいんですか?」
「今CMとか交通情報の時間だからちょっと抜け出してきたの。美味しそうな料理いっぱいあるし……夜の為にも沢山買っておきたいよね」
「へぇ、夜なにかあるんですか?」
「ふふっ、うちのお父さんの祝勝会? そういうの嫌がる人だから私達でパーっと祝ってあげないと」
触れ合う指が自然と絡み合い、それを隠すように彩ちゃんは私達の間へと立ってくれた。
あなた達と一緒にいられるだけで……私にとっては、いつも月夜に米の飯。
なのにあなた達は食べきれない程の御数を添え、数え切れない程の空色を見させてくれる。
シロップで染まった舌先を楽しげに見せるあなた。私も同じ色に染まりたくて、おねだりするように口を開くと……混ざり合う水彩絵の具のように、あなたは直接私の舌先を蒼色に染めてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇
「お疲れ葵。栞は?」
「ババアは様子を見に来た美桜さんに裏で絞られてるよ。あー、私もやっと祭りに参加出来る」
「ふふっ、楽しんできてね」
「……これあげる。本当は結果次第では破棄しようって栞は話してたんだけど」
「何これ……SDカードとデジカメ?」
「校舎の屋上、二人の為に開けてあるから。花火の肴に見てみて? よーし、ビールビール♪」
「ふふっ、何が見れるのかな? おいで、雫」
◇ ◇ ◇ ◇
階段を上がる途中、銀笛と共に光の影が窓硝子を上っていき……重音が、村全体に
色鮮やかな光の粒たちが空から降ってくると、校内の至る所で反射しながらチリチリと音を鳴らしている。
「わぁ綺麗……ねぇ、ちょっと教室の窓から見てみようよ」
あなたに手を引かれ……千思万考している私は、声を発することさえままならず。
少しだけ強く手を握り返すと、上りゆく光の花の影の下、抱き寄せられて口づけをする。
「花火の肴、どんな内容かにゃ?」
教室の椅子に座ると、あなたは私の背に立ち優しく覆いかぶさってきた。
カメラを起動させると、そこには幾つかの写真と一つの動画が保存されていた。
「この写真……居酒屋かな? 美桜さんと栞と……えっ? お父さんもいるんだけど。ふふっ、気まずそうな面子。ってことは葵が撮ってるのかな」
栞さんは一人お酒を堪能している様子で、美桜さんがお父さんを饗しているのだろうか……
少しだけ顔の赤くなったお父さん。お酒は直ぐ顔に出てしまうから人前では飲まないと言っていたけれど……
「じゃあ動画、見てみよっか」
見上げると、花火の光を瞳に映したあなたと目が合い……頬同士を擦り合わせて、優しくおでこにキスをしてもらった。
『ですから今回の企画は── 』
祭りの打ち合わせだろうか、その様子を納められた動画は……時折美桜さんから注がれるお酒によって、お父さんの顔は赤くなり……普段見ることのない、聞くことの出来ない言葉が語られていく。
『ところで、雨谷さんはどうして市長選に? 建前ではなく……本当の意味があるでしょう?』
『…………私には娘が三人いまして、上二人は同じ歳です。一人は妻によく似た……気立ての良い子です。私の言うことを守り常に期待以上のことを残してきました。ただ最近は……自分の意見を言うようになってきましたね。全く、誰の影響なのか……』
『ふふっ、では残りのお二人は?』
『もう一人は…………私に似て頑固者です。自分の中にある揺るがないモノを持っています。一度決めたこと、その信念を貫き通す立派な子です。妻同様、私と前述の娘の背中を後押ししてくれる……私達にとってなくてはならない存在でしょう。そして末っ子ですが、何を考えているのかさっぱり分かりません。ただ……底抜けに明るく純粋な努力家でして、妻と上の子と同じ大学で頑張っている……我が家を照らす太陽のような子です。私は……あの子達が住みやすい、何の気兼ねも無く暮らせていける場所を作らなければなりません』
『ふふっ、随分私欲的な市長になるんですね?』
『……当たり前でしょう。娘を幸せに出来ない者に何が出来るんです?』
銀笛が舞い上がる。
流れる涙を拭うよう、高く高く舞い上がる。
後ろから私を強く抱きしめるあなたを見上げると、伝う涙を混じらせるように優しく頬擦りをした。
鼻先が触れ合うと、一番長い銀笛が鳴り響く。
花開く一瞬の間に動いた口の動きは同期し、その二文字を絡ませるように唇が繋がった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……な、なんだこの騒がしい飾りは」
「ふふっ、祝勝会ですけど? おかえりなさい、お父さん」
「おかえりー。ねぇパパ、今日はみんなで一緒に寝ようよ」
「な、何を言っているんだ……」
大量のクラッカーを鳴らし、色とりどりのテープに埋もれる新市長。
もじもじする私の背中を優しく押してくれるあなたは、愛らしい顔で片目を瞑り目配せを交わしてくれた。
握るクラッカーを一つ鳴らして、家族の挨拶。
「お、お父さん……お疲れ様です。それから……おかえりなさい、お父さん」
「…………ん、その……ただいま」
なだれ込むように彩ちゃんは皆んなを巻き込みながらお父さんへと抱きつき……照れ隠しに鼻で笑うお父さんを見て、私達の笑顔は咲き誇った。
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