第170話 鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす

 今日は七月七日、彼女と過ごす三回目の七夕。

 素敵な毎日の中の、特別な一日。

 去年も一昨年も、一年に一度しか会えない彦星と織姫を模し……私達も一年ぶりに漸く出会えたという体で燃え上がっていた。

 去年までは私から彼女へ愛をこれでもかと刻んでいたけれど……女優と大学生を卒業したあの日からは、彼女からも沢山の愛を刻んでくれるようになった。

 だから今年の七夕は、いつもとは違う燃え方をする筈。ふふっ、楽しみ。


「へぇ……もう蝉が鳴き始めてる」


 網戸に登り鳴く蝉。それを狙うポンちゃん。

 深みを増した庭の緑が、夏の匂いを彷彿とさせる。


「ポン助、晴さんは蝉が苦手だから優しく追い払ってあげなさい」


「いいのいいの。蝉自体は苦手だけど、この声が鳴り響く景色は好きだから。でもまぁ……ちょっと喧しいかな? えいっ」


 網戸にデコピンをすると、ジリジリと鳴きながら庭の奥へと飛んでいった。


「ふふっ、今日は七夕だから……ごめんね、もう少し風情が欲しいの」


 私が笑いながら蝉に謝っていると、何故か彼女は目を見開いて嬉しそうな顔をしていた。

 隠しきれず唇を少し噛んでいる姿が可愛い。

 

「可愛い顔して……どうしたの?」


「か、可愛くなんて……に、庭を見てきますね」


 ここ一週間、頻繁に庭のある場所を彼女は気にしている。

 鬱蒼と生える木々の下、日中でも光があまり届かない庭の奥にある……彼女のビオトープ。

 そういえば、あれを作り始めたのは丁度一年前。七夕が終わってからだった。


 ◆  ◆  ◆  ◆

 

「雫、そんな所に穴を掘って何してるの?」


「川を作っています」


「えっ!? そ、それを作ってどうするの?」


「住み着いて欲しい生き物がいまして……理屈は分かるので私なりのビオトープが出来たらなと」


「そうなんだ……そんなに深く掘らなきゃ駄目なの?」


「川の終点から濾過された水を土の下で夏は冷やしながら、冬は温めながら起点……上流へとポンプで送るんです。緩やかな川ですが、距離と勾配を考えるとこれ位掘らないといけないんです」 


「……ふふっ、よく分かんないけど手伝うよ」


「だ、駄目です!! これはその……私がやらなければ意味がないと言いますか……」


 何度言っても頑なに拒否する彼女だったので、仕方なく私が折れた。


「じゃあせめてこれ着て? それから、必要な物があれば教えてね」


「あ、ありがとうございます!!」


 空調服を着せ、目一杯日焼け止めを塗りたくり……次の日は原付バイクで何度もホームセンターへ往復していたので、首に紐を括り付けて車へ乗せた。

 それから二ヶ月、彼女はほぼ一人の力で素敵なビオトープを完成させた。 


 ◆  ◆  ◆  ◆


 川を見に行った彼女は嬉しそうな顔をして私の下へやって来た。相変わらず唇を少し噛んで我慢している姿が可愛くて、私が我慢出来ずに締まりの無い顔をしていると……ふわっと彼女の匂いに包まれて目の前が暗くて温かくなる。華奢で可憐な手の平が、私の目を優しく覆っている。


「もういいよって言うまで、目を開けちゃ駄目です」


「…………もういいかい?」


「ふふっ、まだですよ?」


 暫くすると、ゆっくりと手の平が離れていく。 

 もういいのかと思い目を開けそうになるけれど、慌てて強く目を瞑り直した。

 優しく頭を撫でられる。


「ふふっ、良い子さんですね」


 その甘声に酔わされて……気が付けばヒグラシの声に起こされた私。寝ぼけ眼、ディミヌエンドしていく火灯し頃。物淋しくなり、「もういいかい?」と呼ぶと……「まだですよ」とおでこに口付けを貰い目を瞑る。


 茹でた玉子麺の香り。

 氷がカラカラとぶつかり合う音色。

 生温い風がどこからか靡く。


「ふふっ。もう……いいよ?」 


 艶やかな微笑み。髪もメイクも服も全部自分で……どうしよう、洒落た言葉が見つからない。


「……綺麗。凄く…………綺麗だよ」


「あ、ありがとうございます……こ、こちらへどうぞ」


 照れ隠しに手を強く引かれる。

 庭へと続くデッキへ向かうと……机の上には私の大好物の胡麻ダレ冷やし中華とお酒が置かれていた。


「わぁ……今日は外で食べるんだ……えっ……?」


 七月七日、今日は七夕。

 夜の帳が下りた庭では……煌めく無数の星たちが、嫋やかに舞っている。


「蛍が……どうしてここに── 」


 星のスケールで考えれば、一年なんてあっという間の出来事なのかもしれない。

 こうして瞬きをすれば……その瞼の裏では、一瞬にして一年間が通り過ぎていくから。



【川を作っています】

【住み着いて欲しい生き物がいまして】

【私がやらなければ意味がないと言いますか……】



「漸く会えましたね」


 涙で滲む視界、被帛を纏った私の織姫が恥じらいながらやってきた。 


 一年で一度しかないこの日の為に、この星たちは命を燃やしその身を煌かせ……この日の為に、彼女は私の為だけに身を粉にしてきた。


 碧々と生茂る葉を揺らす、小さな光りの粒たち。川のせせらぎのように、ゆらりゆらりと移動していく様は星が流れる天の川。

 

「どうかなさいましたか?」


「……見惚れてたの。とっても綺麗」


「ふふっ、どうして私を見て言っているんですか?」


 鳴く蝉よりも……鳴かぬ蛍が身を焦がす。

 二人寄り添い、一瞬で永遠に感じる今を見つめ合う。


 「また来年も会えるかな」なんて間の抜けた私の質問に、笑顔で答える彼女。

 

 それから次の年もその次も……二十年経った今でも、私達の庭では七夕になれば天の川が流れている。


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