第157話 雨谷龍彦 空花晴


 金曜日から降り続く雨。縁側、屋根の上で奏でられる雨音達を聞きながら珈琲を片手に本を読む。

 雨が降れば思い出す。雲天が広がれば蘇る。

 碧羅の天は…………キミの色だった。


【もしもし、お父さん? 今日お昼過ぎに晴さんとそっちに行くね】


「……気をつけて来なさい」


 娘からの電話を切ると、雲間に日が差し始めてきた。成る程なと納得して鼻で一笑し……キミが好きだった伽羅を焚いた。


 キミとの出会いも……降り続く雨を切り裂くような日が照らす不思議な天気だった。

 

 ◆  ◆  ◆  ◆


 当時大学生だった私は下宿先から離れた少し寂れた図書館で過ごす時間を好んでいた。

 雨音を聞きながらの書見、気がつけば三時間程が経っていた。外へ出ると雨は降り続いており、傘をさそうと思ったが傘が無いことに気が付いた。

 傘が盗まれる、それは東京のおまちではよくある事だ。

 仕方がないので小振りになるまで待とうとしたところ、同じように待ちぼうけをしている女性に目が行った。

 その時の…………キミの微笑みは忘れることはないだろう。


「ふふっ、傘を盗まれてしまいました」 


「……私も同じですが、どうして笑っていられるんですか?」


「だって、私の傘で誰かが濡れずに済んだでしょう?」


 どこまでも澄んだ瞳に彩られ、落ちてくる雨粒達はその音を輝かせている。

 何十冊も読んできた小説の台詞など役に立たないと思い知らされながら、私はその場から動けずにいた。


「では私はこれで。失礼します」


「ちょ、ちょっと待ってください。まだ雨が……」


 まるでそうなるのだと分かっていたような素振りで彼女が外へ出ると……雨音は弱まり、彼女を照らすように空から陽光が差し込んでいた。


「ふふっ、私……晴れ女なんですよ?」


「…………奇遇ですね。私は雨男なんです」


「じゃあ私の勝ちですね。雨、止みました♪」


 その瞳に、その微笑みに、その声色に、背中を後押しされた感覚がした。

 言わなければいけないことが、すんなりと出る不思議な感覚。


「あ、雨谷……龍彦たつひこと申します」


「…………空花晴くうげはるです。ふふっ、本当に雨男と晴れ女なんですね」


 それはよく笑う……この世で一番素敵な人だった。


 彼女は携帯電話もPHSも持たない人間で、公衆電話から私の携帯電話へよく電話をかけてきた。

 手すら繋いだことのない私達は何と呼ぶ関係なのか分からなかったが、ただ彼女と話せれば、彼女と会えれば満足だった。

 

 ある日、図書館で待ち合わせをして東京のおまちで逢瀬をした時だった。

 人混みの中、逸れてしまいそうになった彼女の手を握り人気の少ない場所へ連れて行った。

 私の中で生まれていた感情は理解していたし、伝えなければいけないとも思っていた。

 しかし私よりも先に……彼女が口開く。


「龍彦さん…………私、その……」


「空花さん……?」


 何故か私がそうしなければいけなかった気がして、彼女の背中を優しく押して上げるように、握る手を絡ませた。


「……私の名字、分かりますよね?」


「空花……ですか?」


「そう、病んだ人が空を見ると花が舞って見える……そんな言葉です。だからなのか違うのか……私の家系は短命でして……血脈は私が最後の一人なんです」


 言葉が出なかった。

 ただ……今彼女が絞り出しているその全てを零さないよう、強く強く抱きしめた。

 私の胸の中で鼻をすすり顔を擦り付けるその姿に、私は決意した。


「皆、死期が近づくとこう言っていました。花が舞って見えると。薄っすら……薄っすらなんですが私も見える時があって……私…………龍彦さん、私…………」


「空花さん、私と結婚してください」


「…………ふぇっ!!? き、聞いてました!!? 私もうすぐ死んじゃうんですよ!? あなたを幸せにする時間なんて…………」


「幸せに長短などありません。それでももし時間という単位が欲しいのであれば…………私が空花さんを想っている間、私は幸せです。短く見積もっても六十年、長ければ八十年、空花さんは私を幸せにしてくれます。あなたでなければ私を幸せにすることなど出来ないでしょう」


「…………どうして言い切れるんです?」


「だって……あなたじゃなきゃ私には勝てないでしょう?」


 生まれて初めて、誰かに恋をした。

 彼女を幸せにすることが、私の生き甲斐だった。

 ひいては其れが私の幸せであった。


「龍彦さん、そろそろ名前で呼んでくれませんか?」

「そ、そうですね……えー……その…………は、晴……さん……」 


 学生結婚だったが、当然私の家からは反対された。挨拶しに行った際彼女に手を上げた両親を許すことが出来ず、そのまま縁を切った。

 

「本当に私は働かなくてもいいんですか……?」

「えぇ、その為に会計士になりましたから。ですから私の傍で笑ってくれれば……その……」 


 程なくして両親が事故で他界した。

 彼女の身体の事を考え、空気の良い私の故郷に居を構えた。こんなことなら挨拶せずに死ぬのを待っていれば良かったと言ったら、彼女は手でバッテンを作り私の口へと押し当てていた。

 どうしてこんなにも愛しいのかと、強く抱きしめていたのを覚えている。


「ねぇ龍彦さん、いいニュースと悪いニュースがあります。どちらを聞きたいですか?」

「えっと……悪い方から……?」

「実は私五日はお便秘なんです」

「そ、そうですか……その、根菜類や水分も適度に摂ったほうが…………な、何をするんです!? そんなに頬を引っ張って」

「もー、お便秘でいいニュースがあるんですよ?」


 珠のような私達の子供が生まれ、雫と名付けた。


 “末の露本の雫されど幸甚は永久不変”

 

 生命の長さではない、測ることのできない恒久の幸せ。その儚くも尊い一雫……私達の雫。


 彼女達が傍にいてくれるだけで、私は幸せだった。



 そして空に花が舞う。 



「……雫は龍彦さんに似てますから」


「どこが似ているんだ。キミの生き写しじゃないか」


 雫が病室に飾った花を見つめ、彼女は微笑んでいた。

 最初から最後まで……キミは笑っていた。


「ふふっ……私がいなくなったら、龍彦さんがあの子の背中を押してあげて下さいね。本当はいつまでも傍にいてあげたいのですが…………」


「下らん事を……また明日来るから」


 帰路の途中、病院から電話がかかってきた。

 何故明日が当たり前に来ると思っていたのか……もっと伝えなければいけないことが山程あった。

 何故私は素直になれないのか。

 悔やんでも、悔やみ切れない。


「龍彦さん……私は…………あなたを幸せにすることが……出来ましたか……?」


「…………幸せだよ。キミと出会えたあの日から私は……今も尚、そしてこれから先も…………幸せだ」


「…………ふふっ、龍彦さん…………雫をよろしくね…………花が……綺麗…………」


 連れて行かないでくれ。

 何度願ったことだろう。

 その度に、神など此の世にはいないと痛感させられた。

 

 か細く握る指先の力が、何も感じないほど弱くなる。情けなくも私はどうしたら良いのか分からず、只々強く指を絡める事しか出来なかった。


 声にならなくなった彼女の想い。しかし……口の動きだけで十分過ぎるほど伝わった。


“龍彦さん 大好き ありがとう”

 

「私も…………私も……愛してるよ、晴」


 その言葉が間に合ったかどうかは分からないが……彼女は笑顔で旅立っていった。

 今になって思うが、あの時私は一生分の涙を流した。あれ以来、感情の振り幅がおかしくなった。


「お父さん……お母さんは…………?」


 この子を幸せにする事が使命だと、強く心に刻んだ。しかし……私は彼女がいなければ何も出来ない人間だと痛感させられた。

 間違った道なのではないか、そう思っても止められない。変えようとしても……背中を押してくれるキミがいないと、私は駄目だった。

 

 それから十年が経ち……上京している雫からの日報の電話を待っていた。二十歳の誕生日、おめでとうの一言を言おうと思っていた。

 思えば、彼女が亡くなってからそんな言葉を口にしたことは無かった。

 

【……もしもし】


「雫、もう部屋には戻ったか?」


【うん】


 誕生日おめでとう。そんな単純な事すら私一人では言えないほど、歪んだ何かで私は固まってしまっていた。


「……今日も何事も無かったか?」


【うん大丈「ヘッックション!!!」】


 認めたくなかった。


【誰って日向晴だけど】


 認められなかった。

 晴は、私の晴は此の世界で一人だけだ。

 

『家族の幸せを願うのが当たり前だから、私はいつもお父さんの期待に応えるようにしてきたよ。でも、私の幸せを誰よりも考えてくれる人に出会えたから……私はその人を幸せにしてあげたい。私を必要としてくれているんです。人生は一度きりだから…………だから後悔したくないんです』


 私が幸せにしなければいけない。

 それが当然だと思っていた。


『その先の生きる道くらい自分で選ばせてよ! 私達の人生はね、私達のモノなんだから!!』


 何が間違っているのだろうか。

 ふと……空を見上げると、キミに笑われた。


“ふふっ、やっと見てくれましたね。龍彦さん”


 ……ずっと傍にいてくれたキミに何故気が付かなかったのだろう。

 

“龍彦さん、あなたは幸せですか?”


 大丈夫、私は幸せ者だ。キミがこうして傍にいてくれるんだから。……ありがとう、晴。



 ◆  ◆  ◆  ◆



「ただいま……ふぇっ!? お父さんどうしたの?」


 私の晴はキミ一人だけだ。その事実は変わらない。だが……あの子の、雫の晴は…………乗り越えた先に手に入れたソレを私が認めないわけにはいかない。

 

「……誰よりも優しい子だ」


「ふふっ、分かってます」


「どこに出しても恥ずかしくないように育てて来た」


「それも分かってます」


「……私達の、大切な子だ」

 

 窓の外から見えるキミは、あの日と同じように笑っていた。

 そういえば……節目節目の大切な日はいつだって晴れていた。

 晴れ女のキミにはいつだって敵わないのだと思うと、自然と私も笑ってしまう。


「娘を……よろしくお願いいたします」


 いつの日か……約束した通りキミと同じ奥つ城へ入る。

 私とキミ、二人だけのその場所で……今ここで繋がった幸せを見守ろう。

 墓守もその先の幸甚も、私達の子供が……次の晴が繋いでくれる。


 晴、私は今も幸せだ。

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