第132話 八十八の道標


 大寒だいかんこう 、今朝の東京の最低気温は氷点下三度。

 二重になったカーテンを捲り窓硝子を指でなぞると、確かに……外界が在ることを認識させられる。

 庭木の上で鳴く四十雀しじゅうから思扱おもいあつかうが、そんなことは杞憂だと言わんばかりに、隣木から来た四十雀と共に戯れ合っている。


 小さな声が聞こえ振り返ると、どこまでも広がる優しい景色が、元の世界へと私を引き戻した。

 ハンモックに揺られ寝言を呟くあなたとその上で寝転ぶポン助。

 先日設置したペレットストーブの暖が、我が家を外界から数歩隔てている。

 

 そのオーブン付きのペレットストーブ内では、今朝仕込んだアップルパイがあなたの目覚めを待っている。


 日曜日、カーテンの隙間から差し込む陽光。好天の昼下り……こんな日は、あの日を思い出してしまう。


 ピアノ椅子を調整している私の姿が、在りし日の母と重なって見えた。



 フレデリック・ショパン作曲

 “夜想曲第20番 嬰ハ短調”



 記憶があるのは、二歳も終わる頃から。

 何時も気を張っていたお父さんは、日曜日の午後だけを自分の為に使っていた。

 縁側に設置された揺り椅子に座りながら、静かに書見をするお父さん。

 雨の日は、雨音と珈琲の香りが縁側から漂っていた。

 でも晴れの日は……日曜日の晴れた午後は、特別な時間だった。


 ピアノ椅子に座り、悪戯っぽく微笑みながら私に向かって片目だけ瞑り目配せしたお母さん。

 その温かで優しい夜想曲は、揺り椅子で揺れるお父さんへの子守唄。

 こっそり縁側へ行くと、悠悠閑閑ゆうゆうかんかんな空気と床に落ちた小説本。それから、穏やかな顔で眠るお父さんを見るのが好きだった。



 この曲をこの家で弾き始めた頃は、自然とお母さんの指を追っていた。

 まるでオルゴールみたいに、あの時の記憶を懐かしみ奏でていただけだった。

 お母さんを……雨谷晴を、感じたかったから。

 

 でも……でも、もう違う。

 思い出は私の中にちゃんと存在するし……名前を呼んだからって、お母さんが薄れることは無い。


 重なることのなくなった……辿っていた指先が、教えてくれた。

 

 “雫、行ってらっしゃい”


 微笑む母の指先が、私の背中を優しく後押しする。

 私が歩く八十八個、白と黒の道程は……あなたへと、日向晴へと続いていた。


 

 ◇  ◇  ◇  ◇



「ふふっ。晴さん、おはようございます」


「ん……おはよぉ雫…………あれ?」


「ふふっ、お寝惚けさんですね。アップルパイが焼き上がりましたよ? 紅茶淹れてきますね」


「…………しーずく?」


「はい、何ですか晴さん♪」


 日曜日、カーテンの隙間から差し込む陽光。好天の昼下り。

 こんな日は、あなたと共に紅茶を飲みながら……アップルパイを片手に名前を呼び合う、私達の日曜日。

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